ソ連柔道の生みの親としての功績も知られる、日本初の軍神・広瀬武夫の逸話:2ページ目
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広瀬は171センチで71キロ。他国の武官たちは、広瀬がひねりつぶされるのではないかと心配してみていましたが、最初の男を一本背負いでたたきつけ、残り2人は払い腰とともえ投げで空中高く飛ばしてしまいました。この間、わずか1分足らずだったとか。
皇帝はじめ、みなは一瞬キツネにつままれたようにキョトンとしていましたが、このあとが大変。ウワサを聞いて、柔道を教えてくれという人たちが殺到したのです。彼はこの中から3人を選んで、暇を見ては指導したそうです。
1902(明治35)年、日本に帰国しますがその後日露関係は悪化し、2年後の1904(明治37)年3月27日、日露戦争において旅順港閉塞作戦の従事途中に頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死しました。35歳でした。
広瀬が駐ロ時代に指導した3人の人物の中には、クリシー・オミチェビコフという人物がいました。オミチェビコフは、日露戦争講和条約後に来日、講道館で修行を積み、二段になって帰国し、ソ連発の柔道家として、民警学校やロシアの義勇軍で教えるようになりました。
参考
高橋 安美『軍神広瀬武夫の生涯』(2009 新人物文庫)
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