江戸時代後期から幕末にかけて、欧米列強の動きはアジア全体に及んできました。3代将軍徳川家光の代から始まった、鎖国政策をとる日本も例外ではありませんでした。
特にオホーツク海を隔てたロシアは執拗に開国と通商を日本に求めたものの、拒絶する江戸幕府と険悪な状況に陥り、樺太などに武力をもって攻撃を仕掛けてきたのです。
こうした動きに対処するため、幕府は会津藩に北方警護を命じます。会津藩の北方警護とその後について紹介しましょう。
執拗に開国と通商を迫るロシア
江戸時代の歴史で最重要項目とされるのが鎖国です。
3代将軍徳川家光の時代、スペイン・ポルトガル船の来航を禁じ、さらには日本人の海外渡航を禁じた法律でした。
諸説がありますが、1641(寛永18)年にオランダ商館を出島に移したことで完成をみたとされます。
そして、1853(嘉永6)年のペリーの来航を経て、翌年に日米和親条約が締結され、約200年振りに鎖国は終焉しました。
しかし、鎖国が終わりを告げたのは、ペリー来航以前から欧米諸国による様々な働きかけがあったのです。特にロシアの動きは活発で、1792年(寛政4年)に使節として、アダム・ラクスマンが、通商の許可を求め根室を訪れます。
ラクスマンは、回船船頭の大黒屋光太夫ら6人を伴っていました。彼らは、いずれも漂流民で、ロシアに保護されていた人々です。この時幕府は、そのお礼として長崎港への入港を許可しました。
【ロシア外交官が激怒】
そして、1804(文化元)年に、ロシアの外交官であるニコライ・レザノフが出島(長崎)に来航し、半年にわたり通商交渉を行いましたが、幕府は拒否したのです。
半年待たされた上、交渉を拒否されたレザノフは激怒します。そして、樺太の松前藩居留地、択捉島の幕府軍を攻撃したのです。
さらに、ロシアは実力行使に出ます。1806(文化3)年、ロシアの武装船は、再び樺太を襲い、日本の運上屋、番屋、倉庫などを襲い、物資を強奪した上に、日本人を拉致しました。
そうした行為は翌年も続き、蝦夷沖を航行する日本の商船を襲い、物資を奪う事件が頻発したのです。