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明智光秀と共に戦死。本能寺の変を成した5人の重臣「明智五宿老」【中編】

明智光秀と共に戦死。本能寺の変を成した5人の重臣「明智五宿老」【中編】

1582年の本能寺の変によって明智光秀は織田信長を討った。光秀には織田家での立身を支え、本能寺の変でも活躍した5人の重臣が存在した。

今回は、【前編】に続き光秀を支えた「明智五宿老」についてご紹介する。

前回の記事

明智光秀と共に戦死。本能寺の変を成した5人の重臣「明智五宿老」【前編】

1582年。明智光秀は京都の本能寺を急襲し、主君である織田信長を討ち取った。このクーデター成功の背景には、光秀を支えた5人の重臣たちの活躍があったとされる。今回は、明智光秀が信頼をおいた5人の…

4. 藤田 行政(ふじた ゆきまさ)

通称は「伝五(でんご)」。光秀の父親の代から明智家に仕えていたとされる。織田信長と足利義昭対立後、光秀によって落とされた山城国の山本氏が守っていた静原山城に入城した。

大和国(現在の奈良県)の戦国大名である「筒井順慶(つついじゅんけい)」と、光秀の取次役として活動したともいわれるが定かではない。

5. 溝尾 茂朝(みぞお しげとも)

前半生は不明な点が多い人物である。1573年以降は、「三沢秀次(みさわひでつぐ)」の名で、光秀の与力として越前国の代官(領地の支配を代行する地位)を努め、越前支配の実権を掌握したという。

1574年。越前で一向一揆が勃発したことにより京都へ落ち延びる。その後は、光秀の丹波侵攻に従軍。1580年。光秀が京都に築いた周山城(しゅうざんじょう)の曲輪に居を構えたという。

2ページ目 五宿老の由縁

 

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