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身近な地名に意外な由来?地図で見つけた「丹三郎」調べてみたら戦国武将の名前だった
私事で恐縮ながら、地図を眺めて面白い地名を発見するのが好きです。
「一体この地名には、どんな由来があって、どんな思いでつけられたのだろう?」
そんな視点から見てみると、そこに生きていた人々の暮らしぶりや文化を感じられることもあります。
そこで今回は、奥多摩町(東京都西多摩郡)にある大字「丹三郎(たんざぶろう)」について紹介。いかにも人の名前っぽい地名ですが、果たしてモデルはいるのでしょうか?
北条氏に仕えた戦国武将
調べてみたところ、この地名のモデルとなったのは原島丹三郎友連(はらじま たんざぶろうともつら。文明八1476年~天文1532~1555年間没)という戦国武将のようです(史料によって諸説あり)。
原島家はもともと武蔵七党の一つである丹(たん)党の末裔で、祖先には源平合戦のハイライト「敦盛の最期」で有名な熊谷次郎直実(くまがいの じろうなおざね)がいるとも言われています。
武蔵国足立郡原島村(現:埼玉県熊谷市)一帯を治めていた豪族で、友連もこの地で生まれましたが、後に相模国(現:神奈川県の大部分)から北条(ほうじょう)氏が北上してくるとこれに臣従。
北条氏が武蔵国の主導権を握ったのは天文十五1546年「河越城の戦い(河越夜戦)」と見られますが、北部にいた丹三郎たちが従ったのは、その前後辺りと考えられます。
丹三郎は天文年間(1532~1555年)に多摩郡の所領を与えられて移住、よほどよい統治をして領民から慕われた(※)のか、いつしか丹三郎村と呼ばれるようになったそうです。
(※)あるいは通称の「丹三郎」を代々世襲したので「丹三郎(一族が治める)村」と呼ばれたのかも知れません。
また、丹三郎村からすぐ近くの日原(にっぱら)村は同族の原島丹次郎友一(たんじろうともかず)という武将が天正年間(1573~1593年)に戦乱を避けて足立郡から移住してきたと言います。
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