何で女性にその名前?生涯無敗を誇った剣豪美女・園部秀雄の武勇伝【下】:2ページ目
「参った!」
秀雄が繰り出す薙刀の攻勢にたまらず、昇は竹刀を投げて試合放棄を宣言したそうです。そうでもしないと降参の意思が伝わらないほど、怒涛の勢いで攻め込まれたのでしょう。
新選組をも恐れさせた元「人斬り」に勝った……秀雄の評判はますます高まる一方でしたが、その二年後(明治三十四1901年)、師匠の仇討ちということで昇の秘蔵弟子・堀田捨次郎(ほった すてじろう)が勝負を挑んで来ました。
みんなは「返り討ちにされる(=秀雄の勝利)だろう」と予想していたそうですが、三本勝負で捨次郎は二本をとり、僅差で試合を制したそうです。
当時、試合に際しては(選手の気が散る、精神統一の妨げになるなどの理由から)拍手や声援が禁じられていたにも関わらず、会場内は拍手喝采がやまなかったそうで、それだけ秀雄の強さが知れ渡っていたことが判ります。
これが秀雄の生涯における唯一の敗北(諸説あり)とされますが、当の本人は後にインタビューを受けた際、捨次郎との試合について
「あたくしが堀田さんに負けたというのは間違いです」
※読売新聞、昭和三十1955年1月10日付
とコメント。よほどの負けず嫌いなのか、それとも高齢ゆえの記憶違いなのかはともかく、その後も「生涯無敗」を謳いながら夫の道場「光武館」で薙刀術を指導。
昭和十一1936年には自身の薙刀術道場「修徳館」を開き、昭和三十六1963年9月19日、94歳で亡くなる直前まで、各地を飛び回って武道の普及・振興に尽力したのでした。
エピローグ・本当の強さとは?
かくして武道三昧な園部秀雄の生涯でしたが、彼女は平素から「女性は強いだけではダメ!女性らしさを忘れず、その嗜みである家事をおろそかにしないこと!」と弟子たちに指導。自身はどんなに忙しくても、毎日の家事を欠かさなかったと言います。
現代人からすれば時代錯誤もいいところですが、秀雄は「武道に励む女性なんて、どうせゴリラみたいにガサツで、美しさなど欠片もない」などという偏見に苦しんでいたのかも知れません。
強さと美しさは両立できる……美しさとは単に容姿(≒若さ)ではなく、品格ある振る舞いや丁寧な暮らしぶりに表れるもので、その修行と実践手段を家事に見い出したのでしょう。
本当の強さとは、いたずらに「武」をひけらかすことではなく、優しく、そして美しくあること……それが女性として生まれながら「男に負けないこと」を名前に謳った秀雄の見つけた結論なのかも知れません。
【完】
※参考文献:
『歴史ミステリー 日本の武将・剣豪ツワモノ100選』ダイアプレス、2020年11月
『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、2002年10月