踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【中】
前回のあらすじ
踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【上】
時は幕末、会津藩士・神保修理長輝(じんぼ しゅり ながてる)に嫁いだ神保雪子(ゆきこ)は、美男美女のおしどり夫婦として幸せな新婚生活を送っていました。
しかし、会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)が京都守護職に就任すると修理はこれに随行、今生の別れとなってしまいます。
君命によって京都から長崎に派遣された修理は、世界情勢に開眼し「これからは幕府も朝廷も協力して、欧米列強に伍するべし」との見識を培いますが、朝廷では討幕(徳川討つべし)の機運が次第に高まっていきます。
一方の会津藩も主戦派が世論を圧倒、戦争は不可避のものとなるのでした。
神保修理、鳥羽・伏見の敗戦責任をかぶせられる
明けて慶応四1868年1月3日、京都の鳥羽・伏見で戦闘が勃発。後世に言う「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」の火蓋が切って落とされます。
兵力でこそ優勢だった旧幕府軍でしたが、新政府軍が「錦旗(きんき。錦の旗=官軍の証)」を陣頭に掲げるや、朝敵(ちょうてき。朝廷の敵)となることを恐れた旧幕府側の諸藩は次々に降伏してしまいました。
現代人の感覚からすれば「朝廷=皇室なんて、江戸時代を通じて幕府に抑えつけられていたくらいだし、いったい何が怖いの?」と思うかも知れません。
しかし、心ある日本人にとって国家統合の権威である朝廷に弓を引くことは、まさに「神をも畏れぬ暴挙」以外の何物でもありませんでした。
こうなってしまったら、もはや旧幕府側に勝ち目はありません。これ以上抵抗すれば、本当に「朝敵」の烙印を捺され、日本全国を敵に回すことになってしまいます。
「殿、かくなる上は恭順の意思を示すよりございませぬ。これ以上無駄な血を流すことなく、日本国のためと思し召して、どうかご決断を!」
官軍となった新政府軍への降伏を説いた修理ですが、諾とも否とも言わない内に、総大将の徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は容保やわずかな供を連れて、江戸へと逃げ帰ってしまいました。
これを見た会津藩の一同は「腰抜けの修理めが、軍事奉行添役でありながら、御殿をそそのかして撤退せしめたに相違あるまい!」「いや、そもそも鳥羽・伏見の敗戦は、あのような者がおったからじゃ!」……等々、修理を極刑に処するべしと声を荒げます。
戦場に取り残された父・神保内蔵助利孝(じんぼ くらのすけ としたか)や、義父・井上丘隅(いのうえ おかずみ。雪子の父)らと一緒に命からがら帰還してきた修理は、会津藩によって捕らわれてしまいました。