実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【六】
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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【五】
時は幕末・文久三1863年、尊皇報国の志に結集しながら水戸派と試衛館派で内輪もめを繰り広げていた壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ)は、京都守護職を務めていた会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)によって取り立てられ、禁門の変(長州藩のクーデター鎮圧)で存在感を発揮したことから「新選組(しんせんぐみ。新撰組)」の名を与えられます。
しかし、そのネーミングには、乱暴者として数々の問題を起こしていた筆頭局長・芹沢鴨(せりざわ かも)ら「水戸派を粛清すべし」という(試衛館派に対する)メッセージが込められていたようです。
芹沢の片腕として活躍していた隻眼の剣術家・平山五郎(ひらやま ごろう)は、水戸派の同志たちを守れるのでしょうか。
銃撃にも怯まず、米屋に押し入った強盗を鎮圧
さて、禁門の変の興奮冷めやらぬ8月下旬、新選組の元に「四条堀川の米屋に強盗が入った」との通報が入り、平山五郎は永倉新八(ながくら しんぱち)、斎藤一(さいとう はじめ)、蟻通勘吾(ありどおし かんご)らと現場に急行します。
五郎「新選組だ!小悪党ども、神妙に致せ!」
蟻通「よく言うぜ……お前だって五十歩百歩じゃねぇか(笑)」
永倉「こら、真面目にやれっ(苦笑)」
抜刀して敢然と斬り込んだ五郎ですが、強盗は火縄銃を持っており、被弾してしまいます。
「痛ぇ……この野郎っ!」
それでも五郎は銃弾の痛みに怯むことなく強盗を斬り捨て、残った者たちも次々と捕らえられていきました。
「どうだ……芹沢先生の腰巾着みてぇに言うヤツもいるが、俺だって一端の腕なんだよ!」
かくして任務は無事に果たせたものの、この時の負傷が因で剣術に支障が出るようになってしまい、後に命取りとなるのでした。
遊女にフラれた芹沢の腹いせで、遊女たちの髪を切り捨てる
その後も試衛館派と対立しながらも京都の市中見回りに励んでいた五郎ですが、文久三1863年9月のある晩、えらく不機嫌な芹沢鴨が帰って来ました。
「芹沢先生!」
「……おいお前ら、今から俺について来い!」
「は、はい」
その場にいた五郎はもちろん、気圧された土方・永倉・斎藤も否応なしに連れて行かれ、遊郭・吉田屋に殴り込みをかけました。
「おい主人!小寅(ことら)を出せ!」
小寅とは、ここ吉田屋の芸妓で芹沢のお気に入りでしたが、あまりにワイルド過ぎる芹沢が生理的に受け付けられず、肌を許さなかったのです(※当時の遊郭には独自のしきたりが存在し、時として遊女の側にも拒否する権利がありました)。
要するに「フラれた腹いせ」なのですが、芹沢に「従わなければ、吉田屋を焼き討ちにする」と脅された主人は、仕方なく彼女の身柄を差し出しました。
「この芹沢鴨を侮辱した代償は大きいぞ……おい、土方!」
「……はい」
可哀そうに、小寅は土方によって「女の命」である髪を切り捨てられ、付き添っていたお鹿(おしか)も、五郎に髪を切られてしまいました。
「尼になったンじゃ、俺と寝ないのも仕方ねぇな!これからはお経でも唱えて暮らすがいいぜ!はっはっは……っ!」
この頃、朝廷から芹沢一派の召し捕りを命ぜられた会津藩は、局長の近藤勇(こんどう いさみ)にその粛清を命じますが、記録を見ると試衛館派の中でも土方・永倉・斎藤などは、芹沢たちと一緒になって結構「やらかしていた」ようです。
……が、近藤としてはこれまでの不行跡をすべて「芹沢一派(だけ)のせい」にして粛清し、試衛館派による新選組を実現するべく、虎視眈々とチャンスを狙うのでした。