【門松にまつわる一説】武田氏にリベンジ!門松の竹をナナメにぶった斬った徳川家康のエピソード:2ページ目
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家康の機転で意趣返し!武田にリベンジを達成
「御屋形様!斯様(かよう)なる侮辱を受けながら、何を笑(わろ)うておいでか!」
家康は家臣たちの怒りも気にとめず、武田への返歌(へんか。送られた歌に対する返事の歌)をスラスラと詠み上げました。
「まつかれて たけたくひなき あしたかな」
【読み下し】松、枯れで 武田首なき 朝かな
【意訳】松は枯れず、武田の方こそ首がなくなる=滅ぶだろう
当時、和歌には濁点をつけず、平仮名のみで書くのが常識でしたから、家康は自分に都合よく濁点をつけ「竹、類(たくひ)なき」を「武田(たけた)、首(くひ)なき」と詠みかえたのです。
また、「枯れて」は「枯れで」と濁点をつけることで「枯れずに、」と真逆の意味になります。
これを聞いた家臣たちは、俄かに喜色を取り戻し「次こそは武田を討つべし!」と大いに気勢を上げたとのことです。
果たして家康たちは信長の助けもあって天正十1582年に武田氏を滅ぼし、三方ヶ原のリベンジを7年越しに果たしたのでした。
終わりに
こんなことがあって以来、徳川家の影響が強い地域では門松の竹を袈裟斬り(削ぎ切り)に、別にそうでもない地域では古来の水平切り(寸胴切り)を続けたそうです。
やがて時代が下るにつれて切り口の断面が松の緑を引き立てて彩りもいいということで、削ぎ切りの人気が広まったと言われますが、武田家にゆかりの深い地域や人々、また古来の伝統を重んじる向きでは寸胴切りの門松も継承されています。
※参考文献:
加藤友康編『年中行事大辞典』吉川弘文社、2009年3月1日
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