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豊臣秀頼は二人いた!? 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】:3ページ目

そして大阪の陣で散華

以降、家康はあの手この手で秀頼公を挑発し続け、ついに豊臣・徳川の最終決戦となる大阪の陣(慶長十九1614年11月~二十1615年5月)が勃発します。

秀秋は共に伏見城で戦った毛利豊前守吉政(もうり ぶぜんのかみよしまさ。俗に勝永)の軍勢に加わり、四天王寺(現:大阪府大阪市天王寺区)で徳川方の仙石兵部大輔忠政(せんごく ひょうぶだゆうただまさ)の軍勢と激突しました。

「やぁやぁ遠からん者は音に聞け……我こそは毛利河内守秀秋!……命の要らぬ者はかかって参れ!」

かくて勇猛果敢に戦った秀秋ですが、衆寡敵せず力尽きたところを仙石家の家臣・岡田広忠(おかだ ひろただ)に討ち取られてしまいます。

やがて大阪城は陥落、燃え盛る炎の中で主君・秀頼公も自害して豊臣家は滅亡。こうして「豊臣秀頼」は二人とも、歴史の舞台から姿を消していったのでした。

【完】

※参考文献:
谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年
谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年
高柳光寿『戦国人名辞典 増訂版』吉川弘文館、1973年

 

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