- No.6豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】
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豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】:2ページ目
家督を継承した秀秋の受難
さて、幼くして家督を継承した毛利秀秋(※)ですが、秀頼の遺領10万石の内、9万石は義兄(姉婿)の京極高知が受け継ぎ、秀秋には1万石しか与えられませんでした。
(※)父が秀吉から賜った豊臣の姓がまだ有効であったかは不明ですが、まだ幼く、実績もない事などから空気を読んで憚ったものと考えられます。
詳しい事情については不明ですが、まだ幼い秀秋が10万石すべて継承するより、所領が隣接している年長者の京極高知に9万石を追加で与えた方が、周辺諸国へ睨みが利く……などと秀吉も思ったのかも知れません。
辛うじて大名としての体面を保つことが出来た秀秋は秀吉の死後、その嫡男である豊臣秀頼(秀頼公)にも仕えますが、豊臣政権の内部抗争である関ヶ原の戦い(慶長五1600年)では石田治部少三成(いしだ じぶのしょうみつなり)率いる西軍に属します。
伏見城の攻略では手柄を立てたものの、西軍が敗れてしまったため、東軍の大将・徳川家康(とくがわ いえやす)によって、1万石の領地を改易(かいえき。没収)されてしまいました。
それでも豊臣家には恩義があるから、と今度は大名でなく一家臣として秀頼公に仕え、5,000石の旗本として召し抱えられますが、この頃既に世の趨勢が徳川に傾きつつあるのを感じていたかも知れません。
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- No.6豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【完】
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