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豊臣秀頼は二人いた!? 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【五】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【五】

小田原征伐の武功により、念願の飯田城主へ返り咲く

さて、天下統一の総仕上げとして秀吉は天正十八1590年、関東の覇者である北条(ほうじょう)一族に矛先を向け、その征伐に乗り出しました。

この戦で、秀頼は若いころ共に信長の赤母衣衆として轡を並べた前田又左衛門利家の率いる北方軍に加わり、北条一族の守備していた松井田城(現:群馬県安中市)、鉢形城(現:埼玉県大里郡寄居町)、八王子城(現:東京都八王子市)を次々に攻略してから本軍に合流。

そして20万以上と言われる大軍で北条一族の本拠地である小田原城(現:神奈川県小田原市)を海と陸から完全包囲してしまいます。

およそ半年以上にわたる戦いの末、東北の雄・伊達政宗(だて まさむね)が北条一族を裏切ったことによって逆転の望みを絶たれた北条左京大夫氏直(ほうじょう さきょうたいふうじなお)が降伏。日本国内の反・秀吉勢力が(表向きは)ことごとく滅び去り、秀吉の天下統一が果たされたのでした。

その後の論功行賞で、秀吉は忠功ある臣下に対して「恩賞は望みのままにとらせようぞ!」と得意の絶頂。そこで秀頼はかねての念願であった飯田城に戻れるよう願い出ます。

「何じゃ、そんなので良いのか……まぁ、もちろん良いぞ!」

という訳で、秀頼は「本能寺の変」以来8年ぶりに飯田城へ返り咲き、晴れて7万石(後に10万石)の大名となったのでした。

「源五(天正十1582年の甲州征伐で討死した秀頼の養子)よ……そなたと共に立てた武功の城を、父はようやく奪還したぞ!」

ちなみに、かつて秀頼から飯田城を奪った下条頼安は、共謀者である小笠原信嶺(おがさわら のぶみね)と仲を違えて暗殺され、その信嶺は家康に従って北条氏亡き後の関東へ移住。以降もちょくちょく秀頼と関係があったものの、さぞや気まずかったろうと思われます。

ともあれ念願を叶えた秀頼は、意気揚々と飯田城へと赴いたのでした。

【続く】

参考文献

  • 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年
  • 谷口克広 監修『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年
  • 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』角川選書、2016年
 

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