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豊臣秀頼は二人いた!? 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【五】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【五】

「元祖」豊臣秀頼の誕生

天正十三1585年、これまでの功績によって秀吉の推薦を受けた秀頼は、侍従(じじゅう。天皇陛下の側近)に叙任されて内裏(だいり)への昇殿が許される「殿上人(てんじょうびと)」となりました。

と言っても実際に朝廷へ付きっきりではなく、その後も秀吉の側近として中国の毛利(もうり)氏や四国の長曾我部(ちょうそかべ)氏を従えるべく工作活動を行い、臣従を拒否した九州の島津(しまづ)氏を討伐するべく出兵した天正十五1587年には、秀吉に随行しています。

そして天正十六1588年、秀吉の邸宅と政庁を兼ねた聚楽第(じゅらくだい)に後陽成天皇(ごようぜいてんのう。第107代)が行幸(ぎょうこう。天皇陛下がお出かけになること)されると、そのめでたい記念と供奉(ぐぶ。お供すること、接待)の功労に対して「豊臣」「羽柴」の姓を与えられました。

この頃の秀吉は機嫌がいいと自分の姓「羽柴」、そして天正十四1586年から名乗るようになった新しい「豊臣」の姓を大盤振る舞いすることがあり、本能寺の変から逸早く秀吉に従い、貢献してきた秀頼もその余慶に与ったのでしょう。

百姓から身を立てて、関白にまで出世を遂げた自分一代で創始した新しい姓がよっぽど嬉しくて、みんなに使わせることで自分の偉大さを噛み締めたい……そんな思いがあったのかも知れませんね。

ちなみにこの頃、秀頼は「岩倉侍従毛利河内守」と名乗っており、秀吉から尾張国の岩倉城(現:愛知県岩倉市)を与えられていた城持ち大名であったと見られています。

かくしてここに「豊臣秀頼」が誕生した次第ですが、後に秀吉の跡取りとなる有名な方の秀頼(拾丸)はまだ生まれていません(文禄二1593年8月3日生まれ)から、むしろこっちの方が元祖と言えます。

3ページ目 小田原征伐の武功により、念願の飯田城主へ返り咲く

 

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