クォーター侍!赤穂浪士の中には何と古代中国の思想家・孟子の末裔がいた!:2ページ目
言いたいことはすぐ言っちゃう血気盛んな唯七
治庵の子である渡辺式重(わたなべのりしげ)の次男に生まれた唯七は兄が渡辺家を継いだので、分家をすることになります。
その時唯七は祖父が使用していた武林姓を使用したので「武林唯七」となり、武林家を再興することになりました。
元禄14年(1701)主君の浅野内匠頭長矩が刀傷沙汰を起こして切腹した時、唯七は江戸にいましたがすぐに赤穂藩へ向かい大石内蔵助に誓文を送り江戸に戻ります。
江戸に戻った唯七は堀部安兵衛に賛同して討ち入りを決行したい派閥の江戸急進派の1人となりました。
そして、大石が討ち入りに中々動かないことに苛立ちを覚えた唯七は大石の側近の大高忠雄に向かって「ご家老(大石)が動かないのはあなたたちが腰抜けだからだ」と暴言を吐き捨てます。
それくらい唯七は討ち入りに対して積極的だったことが窺えます。