源義経は複数いた?美男子ではなかった?日本各地に残る義経伝説の実情とは:2ページ目
義経、合戦で思わぬ失態?
例えば、有名な一の谷の合戦で見せた「鵯越えの逆落とし」という奇襲戦法。こちらは現在伝えられているものとはずいぶん違ったという指摘があります。逆落とし自体がフィクションだったという説さえもあります。
また、「屋島の合戦」では、思わぬ失態をさらしてもいます。この合戦では義経は馬に乗って平家の兵をおいかけ、海のなかまで入っていきました。すると、平家軍は船から熊手を伸ばし、義経の兜にひっかけ馬から落とそうとしました。大将の義経は源氏の兵に守られましたが、弓をうっかり海の中に落としてしまいました。
義経が鞭を使って弓を拾おうとすると、平家軍は熊手で義経をひっかけようとしました。これを陸で見守っていた源氏の武将たちは、「弓はそのまま捨てて、お引き上げなされ」と声をかけました。ところが、義経は聞かず、必死になって弓を取ろうとして、ようやく拾い上げるという有様。ことのなりゆきを最後まで見守っていた武将たちは、気が気でなかったはずです。
義経は小柄で、弓を弾く力も弱かったと伝わります。そのため義経の矢は貧弱なものでした。義経は、その弓を平家の軍勢に拾われて嘲笑されることを嫌がり、必死に探したのだといいます。
頼朝から冷遇されたことも、義経フリークからすると義経に嫉妬した頼朝による「いじめ」のようにも思えますが、実際は義経が後白河法皇の口車に乗せられて、結果的に頼朝の統制に従わなかったことになってしまい、処罰されたことは自業自得だとする指摘もあります。義経は、戦上手ではあったものの、政治家としては無能だったと考えられます。