「天皇の母」を出し続けた蘇我一族は、なぜ古代王朝で「別格」になれたのか?
天皇の相棒
6世紀初めの日本では、天皇を中心とする王権が大きく変わろうとしていました。
その転換点に登場したのが継体天皇です。ご存じの通り、現在の皇室につながる天皇の一人です。
この時代には、朝鮮半島との関係や九州の磐井の乱など、王権を揺るがす問題も起きていました。継体天皇が安定した政権を築くには、天皇だけの力では足りなかったでしょう。
そこで重要になってくるのが、天皇を支えた有力豪族たちです。その中で王権の中枢へと急速に進出したのが蘇我氏でした。
では、蘇我氏はなぜここまで強い政治力を持つようになったのでしょうか。
磐井の乱を経験した継体天皇にとって、大陸や朝鮮半島の情勢に詳しい豪族は、王朝を守るうえでも重要な存在でした。
さらに自分の王朝を安定させるため、協力する豪族を政治的な基盤として組み込むことも考えたと推測されます。
一方、豪族たちも、磐井の乱を平定して九州の王権を手にしたこと継体王朝と協力に結びつくことを考えます。娘を皇子に嫁がせ、男子が生まれれば外戚として政治に関われます。
しかし実際に採用されたのは、天皇の母となる女性を特定の一族から出すシステムでした。これなら、豪族同士の競争を抑えることになります。
その役割を担う豪族として選ばれたと考えられているのが蘇我氏なのです。
葛城の勢力
では、蘇我氏はどこから来たのでしょうか。その出自については諸説ありますが、有力な説の一つが大和南西部の葛城地方との関係です。
葛城地方には複数の部族が存在し、それらは葛城氏と呼ばれる集団を形成していました。
『古事記』や『日本書紀』には、5世紀の仁徳天皇の皇后をはじめ、大王家の外戚となった葛城族が登場します。
その葛城集団の中で、曽我川流域を支配していた勢力が成長し、やがて蘇我氏の母体になったという説が有力です。ただし、これは確定した史実ではありません。
この勢力は大和の飛鳥地方や河内の石川地方へ進出する過程で、渡来人が暮らす地域も支配するようになったとされています。
そして葛城集団の中枢と、渡来人の集団である東漢氏を統率する勢力が結びつき、蘇我氏が形成されたと考えられているのです。
つまり蘇我氏は、ある日突然に大和へ現れた豪族ではなかったということです。

