「天皇の母」を出し続けた蘇我一族は、なぜ古代王朝で「別格」になれたのか?:2ページ目
天皇の母
継体天皇の後を継いだ欽明天皇は、蘇我稲目と密接な関係を持ちました。稲目の娘である堅塩媛と小姉君が、欽明天皇の妃となったのです。
のちに堅塩媛は用明天皇と推古天皇の母となり、小姉君は崇峻天皇の母となりました。ここで、蘇我氏は天皇を生んだ女性の一族として、王権の中枢に深く入り込んだわけです。
この関係を考えると、蘇我氏がなぜ特別な地位を得たのかも見えてきます。
継体天皇から8世紀初頭の光明皇后まで、天皇の母となった女性には、継体天皇の皇女や蘇我氏一門の女性が多く関わっていました。
さらに面白い事実があります。推古天皇の時代に定められた冠位十二階に蘇我氏は含まれていません。
つまり、蘇我氏は通常の豪族と同じ序列に置かれなかったのです。このことからも、蘇我一族は天皇に近い別格の存在だったと解釈できます。
とはいえ、これは歴史学上の確定した事実ではありません。王権と外戚の関係を説明するための一つの見方として考えるべきでしょう。
蘇我馬子が歴史上の大物として登場できた背景には、すでにこうした基盤がありました。
蘇我氏の強大さは馬子個人の能力だけで生まれたものではなく、天皇家との婚姻と外戚という立場を積み重ねた結果だったと考えると、その特別な地位がどのようにして築かれたのかがよく分かります。
また、こうしたやり方は後に藤原道長も採用していましたし、そもそも現在の天皇家は織田信長や徳川家康などの日本史上のビッグネームとほぼ必ず血の繋がりがあります。
武家政権の時代になると天皇の存在は薄くなりますが、実際には日本史(特に政治史)というのは天皇家・朝廷・豪族・貴族・武家・有力大名が、婚姻や官位、血縁、政治的承認などを通じて複雑につながりながら権力を動かしていたのが実態でした。
それは古代の蘇我氏から既に始まっていたのです。
参考資料:出口治明『10人の英傑が「この国」を変えた 大転換の日本史』2025年、PHP研究所
画像:Wikipedia,PhotoAC
