織田信長=冷酷 はポルトガル宣教師の偏見?“冷酷な暴君”のイメージを覆す驚きの「追放処分」と合理的人事
厳しい主君
織田信長といえば、部下にも容赦しない厳しい主君というイメージが強いでしょう。
実際、信長が家臣の失敗や怠慢を強く責めた例はありました。決して甘い上司ではなかったのです。
代表的なのが、本願寺との戦いで重要な戦機への対応が遅れ、被害を広げた重臣の佐久間信盛でした。
とはいえ、信盛は厳しく処分されたものの処刑されたわけではありません。高野山へ追放され、そこで余生を送っています。
このあたり、一般的なイメージと実際の人物像との間にはズレがありそうです。
信長が、家臣を処罰するために殺害したという事例はそれほど多くありません。家臣への処分は、殺害よりも追放が多かったのです。
これは信長が優しい主君だったという話ではありません。失敗した家臣を厳しく処分する一方で、使える人材までは簡単に見捨てなかったと見ることができます。
まず、そもそもの話として、信長のことを絶対君主で部下に強圧的な人物として描いたのは、ポルトガル出身のイエズス会宣教師ルイス・フロイスでした。
信長と親交のあったフロイスは『日本史』に信長の姿を書き残し、その人物像は後世にも大きな影響を与えました。そこで描かれた人物像にやや偏りがあったのでしょう。
