織田信長=冷酷 はポルトガル宣教師の偏見?“冷酷な暴君”のイメージを覆す驚きの「追放処分」と合理的人事:2ページ目
人材を重視
信長の家臣登用の傾向として目立つのは、出自だけで人物を判断しなかった点です。
その代表が、誰あろう百姓の息子から登用された羽柴秀吉でした。身分の低い出身でも、信長は能力さえあれば重要なポジションを与えたのです。
明智光秀もそうです。彼はもともと各地を転々としていましたが、足利義昭の後に信長の家臣となって大名へ出世しました。
柴田勝家もそうです。彼はかつて信長と後継者争いをした弟・信勝を支持していましたが、重用されたのはご存じの通りです。信長は過去の対立よりも、武将としての力量を評価したのです。
さらに信長は、自らすべての戦場へ出向くのではなく、稲葉山城や安土城から各地を指揮する体制を作ろうとしていたと考えられています。
関東には滝川一益、北陸には柴田勝家と前田利家、中国には羽柴秀吉、四国には三男の信孝と丹羽長秀を置く構想が進んでいました。
全国規模の支配を目指すなら、信長一人の能力だけでは足りません。広い地域を任せられる人材を見つけ、その力を使い続ける必要があったのです。
つまり信長の家臣登用には、個人的な好き嫌いだけでは説明しにくい合理性がありました。ひとことで言えば適材適所という考え方だったのでしょう。
3ページ目 史実の信長が「非情な主君」ではなかったと言える理由
