「天皇」も「日本」も最初からあったわけではない?天皇家の系譜から読み解く古代史の謎【後編】
私たちは普段、何の疑いもなく「天皇」「日本」という言葉を使っている。
しかし、この二つの名称はいつ生まれ、そしていつから使われはじめたのだろうか。
[後編]では、「天皇」と「日本」という称号・国号が生まれた真実について、歴史的背景を交えて紐解いていこう。
[前編]の記事はこちら↓
「天皇」も「日本」も最初からあったわけではない?天皇家の系譜から読み解く古代史の謎【前編】
昨今、女性天皇問題にも関連する皇室典範改正が話題となっている。これに関して高市総理は、「(天皇の皇位継承は)男系男子に限ることが適切とされている。私としても尊重している」と見解を明らかにした。…
空白の4世紀を経て倭国の「大王」が誕生した
2世紀後半の「倭国大乱」を経て、3世紀になると倭には邪馬台国という連合国家が生まれる。3世紀の中頃、女王卑弥呼が亡くなると、新たな男王を立てたが国内は再び乱れたという。
そこで、卑弥呼と縁の深い台与という少女を王に擁立したところ、国内は安定した。これが「第二次邪馬台国」の成立である。『晋書』武帝紀には、西暦266年11月に、倭人が朝貢したことが記されている。この朝貢は、台与によるものと考えられる。
この記録を最後に、中国の史書から倭国に関する記録が途絶える。いわゆる「空白の4世紀」のはじまりだった。
とはいえ、4世紀初め、畿内で強大な首長勢力が生まれたことは間違いない。邪馬台国との関連性は定かではないが、この勢力は、5~6世紀にかけて次第に勢力を拡大し、各地の王たちとの対立や統合を経て、列島の広範囲にその影響力を及ぼすようになっていく。
やがて畿内の首長は、列島の王たちの頂点に立つ存在として、「大王(だいおう・おおきみ)」と称されるようになる。
つまり、「倭国の大王」が誕生したのである。そして、この国家形成の過程の中で、のちに「日本」「天皇」という名称が定着していくことになるのだ。
かつて、その時期については、第33代・推古天皇以降とする説が有力視されてきた。推古は、崇神・応神の次に現れた継体王朝の7人目の大王であり、摂政・聖徳太子と大臣・蘇我馬子とのトライアングル政治を行った時代であった。


