農民にとっても刀剣はシンボル!豊臣秀吉の「刀狩り」、実は農民の武装解除は徹底されていなかった
武装解除のため武具を没収?
刀狩りは、太閤検地と並ぶ豊臣秀吉の代表的な政策です。農民の刀剣や鉄砲を全国的に没収した政策として、歴史の授業で必ず習う出来事なので覚えている方も多いでしょう。
実は、その刀狩りの解釈が、近年では大きく変化しています。
かつては刀狩りによって、農民は武器を徹底的に没収され武装解除を強要されたと考えられていました。
その理由として、乱世の農民は野盗や戦乱に備えて武器を所持していたが、被支配層に武装を許していては安定した統治は難しいからです。そこで秀吉は刀狩りを実施して、農民の武装を解除した……というのがこれまでの通説でした。
しかし現在では、なんと「刀狩りの目的は農民から武器を没収することだった」という説は否定されています。
刀狩りとして農民の武器没収が行われていたのは事実ですが、実はそれほど徹底されていなかったのです。
その証拠に、江戸時代に入ってからも弓や鉄砲を所持する村落は多く存在していました。そうでなければ、寛永14年(1637)に起きた島原の乱で多くの武器が使われたことは説明がつきません。
また、1700年代の信濃国松本藩では、領内の村落で1000挺以上の鉄砲の存在が確認されています。
狩りや害獣への威嚇用だったとはいえ、その気になれば人を殺すことができる代物を、農民たちは持ち続けていたのです。
では、秀吉による刀狩りの真の目的と、その実態はどのようものだったのでしょうか。
2ページ目 実は徹底していなかった 〜 刀狩りが目指したもの
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