空腹のあまり人肉を喰らった人も… 江戸時代に起きた史上最悪の「天明の大飢饉」はどのようなものだったのか?
古くより農業国であった日本では、農作物の不作が続くと比例するように飢饉が頻発。
ピークとなった江戸時代では、人口爆発の影響で食料の供給が追いつかず飢饉が急増しました。なかでも史上最悪と言われた天明の大飢饉とは、一体どのようなものだったのでしょうか?
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飢饉とは
飢饉とは、「何らかの原因で農作物が不作となり、人々が飢えること」で、大規模な農作物の不作とともに発生。日本に米作が伝わった弥生時代からすでに存在しており、日本の暮らしと切っても切り離せない関係でした。
天明の大飢饉
天明の大飢饉は、江戸時代の中期である1782年から約6年ものあいだ全国的に発生した飢饉のことです。和暦で天明2年の時に発生したことから「天明の大飢饉」と呼ばれ、享保の飢饉や天保の飢饉と合わせて「江戸時代の三大飢饉」と言われています。
1770年代から悪天候の影響で不作が続き、大規模な食糧難が発生。 全国で餓死者が相次ぎました。 さらに、1783年に岩木山と浅間山が続けて噴火し、各地に火山灰を降らせたのです 。
被害規模
天明の大飢饉による餓死者は30万人~50万人とも言われ、同時に起こった噴火、洪水などの天災で亡くなった方の人数を合わせると100万人を超えるとも。
1700年代の日本の人口は2800万人~2900万人と想定されており、大まかに計算しても30人に1人が亡くなっているこことが分かります。
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