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「この子が男に生まれていれば…」父・藤原為時を嘆かせた、幼少期の紫式部の天才エピソード【光る君へ】

「この子が男に生まれていれば…」父・藤原為時を嘆かせた、幼少期の紫式部の天才エピソード【光る君へ】

インテリの家系と為時の出世

大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部ですが、その家系は藤原鎌足・藤原不比等から始まる藤原一族に連なるもので、大変高貴な家系だったと言えるでしょう。

しかも、彼女の先代・先々代の血筋だけを見ても、代々歌人や役人として活躍した人ばかり。つまり紫式部は、高貴なインテリの家の生まれだったのです。

超インテリだった「紫式部の家系」を深掘り!彼女の文才はどこから来たのか?【前編】

藤原氏の系譜大河ドラマ『光る君へ』で話題沸騰中の紫式部。今回はこの人の出自について詳しく見ていきましょう。※合わせて読みたい:[insert_post id=215437][insert_…

後に『源氏物語』を記すことになったのも、もっともな話でした。

そんな中で、彼女の才能の片鱗を伺わせるエピソードがあります。

紫式部の生まれた年については諸説ありますが、さしあたり彼女が八歳くらいだったと思われる977年には、父の藤原為時読書始の儀における副字読というポジションに就いています。

読書始の儀とは、皇太子が、毎年最初に勉強をする時に撮り行う儀式のこと。副字読は、その儀式で皇太子に勉強を教える「字読」というポジションの副官にあたります。

もともと為時は学者肌の人だったと言われており、彼にとってこのポジションを獲得したのは大変名誉なことでした。当時の紫式部も、子供なりに父の出世が素晴らしいものだと感じていたようです。

為時が、当時の皇太子である師貞親王の御殿へ、しょっちゅう出入りするようになったのはこの時からです。そして彼は、皇太子の近習(主君のそば近く仕える家来)たちと親交を深めていきました。

2ページ目 「男にて持たらぬこそ幸なかりけれ」

 

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