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美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【中・戊辰戦争編】

美しすぎた男装のイケメン女剣士・中沢琴の幕末奮闘記【中・戊辰戦争編】:3ページ目

恩に報いる為ならば……庄内戦争でも大立ち回り

明けて慶応四1868年、鳥羽・伏見の戦い(1月3日~6日)で幕府軍が敗れると、新政府軍は幕府の譜代大名としてあくまでも徳川将軍家に忠誠を貫く庄内藩を追討するよう東北諸藩(山形藩、秋田藩など)に命じます。

これは主君の一大事とあって、日ごろ恩義に与ってきた新徴組は江戸在勤の藩士らと共に一路庄内へと急行しますが、その道中、貞祇は左足をかばって歩く妹を案じて、帰郷を促します。

「琴よ。お前はもう十分に戦(たたこ)うた。その足で庄内まで行くのは難儀じゃろうから、道中で離脱して故郷・穴原へ帰れ」

「これしきの怪我で何をおっしゃいますか!たかが鴻毛の命一つ惜しんで恩義ある主君の大事に報いねば、武士の名折れにございます。何より……我ら兄『弟』、死ぬも生きるも一蓮托生と誓(ちこ)うたではありませぬか」

恩義に報いるためなら、自分の命など鴻毛(こうもう。鳥の羽毛)のように軽いもの。そんな琴の覚悟に、貞祇もそれ以上の説得はしませんでした。

「まぁ……お前ならそう答えるじゃろうな」

「はい!兄上、最期までお供致します!」

かくして新徴組は庄内藩と合流、迫り来る官軍(薩長軍や東北諸藩)を相手どって2ヶ月以上にわたる死闘を演じることとなりますが、これが後世に言う庄内戦争(明治元1868年7月11日~9月25日)です。

庄内戦争において新徴組が、琴と貞祇がどの戦線に、どのように(みんなまとめてor隊士ごとバラバラに)投入されたかは不明ですが、琴が獅子奮迅の大立ち回りを演じたエピソードが伝わっています。

琴たちが敵中深く斬り込んで乱戦のさなか、俄かに左足の傷が痛んで貞祇や仲間たちからはぐれ、敵兵十数名に取り囲まれてしまいました。

「おい、こいつ女だぞ!」

「何だと、散々手こずらせやがって!」

「身の程知らずめ、思い知らせて……ぐゎっ!」

一瞬の隙を衝いた琴は敵兵2、3名を斬り捨てて囲みを突破、九死に一生を得て再び貞祇らと合流し、庄内藩が新政府軍に降伏するまで、徹底的に抵抗を続けました。

ちなみに、戦闘そのものは終始庄内藩が優勢、ほぼ無敗だったそうですが、同盟諸藩が次々と降伏していく様子に天下の趨勢を覚った酒井忠篤は、ついに降伏を決断したそうです。

【下編に続く】

※参考文献:
岸大洞ほか『群馬人国記 : 利根・沼田・吾妻の巻』歴史図書社、昭和五十四1979年4月
石村澄江『上州を彩った女たち』群馬出版センター、平成二十六2014年11月
石川林『事件で綴る幕末明治維新史 上巻』朝日新聞名古屋本社編集制作センター、平成十1998年6月
斎藤正一 著/日本歴史学会 編『庄内藩』吉川弘文館、平成七1995年1月

 
 

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