江戸時代に日米の懸け橋となったジョン万次郎、帰国後のその後の人生とは…?(2):3ページ目
その後、万次郎は小笠原諸島の父島を拠点に捕鯨の事業を始めましたがうまくいかず、慶応二(1866)年、四十歳のとき、薩摩藩の開成所教授に就任しますが、すぐに土佐藩に呼び戻され、藩校「開成館」の設立に携わります。
明治時代になると、万次郎は新政府に招かれ、現在の東京大学の前身、開成学校の教授として教壇に立ちました。
翌年、ヨーロッパで普仏戦争がはじまると戦争視察団の一員としてヨーロッパへ出張、このときに漂流時の米国留学でお世話になった人々と再会し、旧交を温めています。ロンドンについて間もなく、足の潰瘍が悪化したためやむなく単身帰国。足が治るとすぐに今度は軽い脳溢血を起こして倒れ、現役を退きました。
晩年は穏やかな日々を過ごし、明治三十一(1898)年、東京・京橋の長男宅で、七十二歳の波乱に満ちた人生を終えました。
中浜万次郎は若くして漂流という数奇な運命に翻弄されながらも、自分の実力を磨き、自らの才覚によって日米の懸け橋となり日本の近代化に大きく貢献しました。
参考