忘れないで!実は9代目まで続いていた鎌倉幕府の将軍たちを一挙に紹介!:4ページ目
第7代・惟康親王(これやすしんのう)
【生没】文永元1264年4月29日~嘉暦元1326年10月30日(享年63歳)
【在位】文永三1266年7月24日~正応二1289年9月14日(約23年2ヶ月)
宗尊親王の嫡男。3歳で将軍職を譲られ、7歳で臣籍降下(しんせきこうか。皇族から朝臣≒民間人に格下げ)されて「源」の姓を賜り、源惟康(みなもとの これやす)と名乗ります(後嵯峨源氏、一代のみ)。
これは蒙古襲来(元寇)という未曽有の国難を前に、将軍を初代・頼朝公(源氏の棟梁)になぞらえて御家人の結束力を強めるための施策と言われ、その甲斐?あってか、幕府軍は元軍の撃退に成功します。
しかし、いざ脅威がなくなると、惟康将軍のカリスマが邪魔となった執権は惟康将軍を皇族に復帰(親王宣下)させ、従兄弟である久明親王(ひさあきらしんのう。後深草天皇の第六皇子)に将軍職を譲らせた上、京都に追放してしまいました。
後深草天皇に仕えた女房・二条の日記『とはずがたり』によると、惟康親王が鎌倉を追放される時、親王が輿(こし)にも乗らない内に、下級武士たちが将軍の今まで住んでいた御所を土足で踏み荒らし、破壊する様子に、女房(にょうぼう。女官)たちは泣いて右往左往するばかりであったと言います。
筵(むしろ)に包まれた粗末な輿に乗せられて、惟康親王は大いに泣いたそうですが、未曽有の国難には散々利用しておきながら、用済みとなれば無情の仕打ち、かつての義経公を彷彿とさせるようです。