明治時代は旧制度を改め、また新しい制度を作るのに大変苦労した時代だったと思われます。なかには、どうしてもまとめなければならないことがまとまらず、「えいや!」っと勢いに任せて決めてしまったこともあるようです。
1871(明治4)年7月廃藩置県が行われると、越後と佐渡では13県 が誕生しました。その後、政府の統合政策によって同年11月には,新潟・柏崎(かしわざき)・相川の3県体制となりました。1872(同5年)に楠本正隆(くすもとまさたか)が新潟県令に就任されると、彼の「一国一県論」に基づき、翌年に柏崎県が新潟県に併合。ここに越後国は新潟県として統一されたのです。
さて、この合併に至る経緯に関してが実に面白い!
重大ごとを相撲で決める!?
その経緯は、1901(同34)年1月24日の新潟新聞(新潟日報の前身)のコラムにて詳しく紹介されています。
記事によれば、事の発端は1872(同5)年12月のこと。楠本正隆が東京出張の際、柏崎に宿泊。そこに柏崎県の役人たちが訪れ、酒宴が開かれました。宴もたけなわのころ、楠本がすくっと立ち上がり、「越後は一つの県になるべきだとおもうが、どちらの県に合併するかで意見が対立している。そこで、この問題を相撲で決めようではないか」と提案したといいます。
酔いも手伝って一同賛成。県令自らが行司役となるなか、畳の上で両県の役人が相撲を取りました。その結果、新潟側が勝利を収め、翌年6月、柏崎は新潟県に併合されたといいます。
この話、じつは1933(昭和8)年刊行の『新潟古老雑話』にも掲載されています。