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ゲゲゲの鬼太郎の原型! 幻の紙芝居「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【2】

ゲゲゲの鬼太郎の原型! 幻の紙芝居「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【2】:3ページ目

ついに鬼太郎誕生

鬼太郎の誕生に話を戻しましょう。『ハカバキタロー』のあらすじを聞いた水木しげるは、「ちょっと古くさいな」と思ったそうです。20年前の作品ですから仕方ないことですが、水木はそれで終わらず「よし、ハカバキタローを今風の筋に変えよう」と思いつきました。

鈴木も「こういう不況の時代は因果ものがあたる」とすすめたといいます。

こうして書き始めたのが、紙芝居版『墓場鬼太郎』です。漢字表記では「“奇”太郎」だったのを「“鬼”太郎」に変えました。

「え、いいの?」と思われるかもしれません。しかし紙芝居では、過去のヒット作を他の作家が書き直すことは珍しいことではなかったのです。

おおらかな時代なんて言いますが、当時の著作権の感覚は現代とは違いました。かの有名な『黄金バット』も作者が何人もいます。加太こうじは、戦後になって復活した『黄金バット』を書くようになりました。

そんな中でも、水木の『墓場鬼太郎』にとって『ハカバキタロー』は、重要な原型ではあるが別の作品といえるものでした。「墓場で生まれた」「母が幽霊」などの基本設定を『キタロー』『飴屋の幽霊』から受け継ぎながら、世界観は異なるものになっています。キタローは異形の者ではあるが妖怪ではない、という点も大きな違いでしょう。

そうなった原因の一つは、水木が『ハカバキタロー』の実物を見ていなかったためだと考えられます。『ハカバキタロー』は昭和8~10(1933~1935)年に大ヒットしますが、水木の故郷までは届いていなかった可能性が高いのです。

その頃の紙芝居は印刷されない「一点もの」でした。たった一つの原本を貸元が管理し、紙芝居屋たちに貸し出していました。テレビのように全国すべてに行き渡らせることは難しかったわけです。

そして昭和12(1937)年頃から、ブームを過ぎた紙芝居の原本は倉庫に保管されるようになりました。ところが昭和20(1945)年4月、その倉庫が空襲によって焼失してしまいます。『黄金バット』などとともに『ハカバキタロー』も灰になりました。

そんなわけで水木は、『ハカバキタロー』をコピーしたかったとしても出来ませんでした。そのかわり骨組みだけ借り、自由に発想を広げることが出来ました。自然とそこに、水木個人の妖怪への思いや人生経験が盛り込まれ、ほぼオリジナルの鬼太郎のキャラクターが形作られていきます。

やがてテレビ放送が始まり紙芝居が衰退した昭和32年、水木は東京へ移り、貸本漫画家の道を進みます。このとき加太こうじが下宿を紹介するなど面倒をみました。『墓場鬼太郎』を漫画化にする際は伊藤正美の諒解を得ています。

その後少年漫画誌での連載が始まり、『ゲゲゲの鬼太郎』としてアニメ化され国民的作品となったことは、みなさんご存じの通りです。

参考文献:
『紙芝居昭和史』加太こうじ(岩波書店)
『ゲゲゲの人生 わが道をゆく』水木しげる(NHK出版)
『ゲゲゲの女房』武良布枝(実業之日本社)
『水木しげるの「妖怪」人生絵巻』(朝日新聞社)
『紙芝居文化史ー資料で読み解く紙芝居の歴史』石川幸弘(萌文書林)
『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝(河出書房新社)

画像出典:写真AC

 

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