明暦の大火…俗に言う「振袖火事」は武家の失火?はたまた都市計画のために幕府が仕向けたもの?:2ページ目
江戸の大半を焼いた大火災「明暦の大火」
木造家屋が今より多く、家々が密集していた江戸の町では、火災が一番の災害でした。「火事と喧嘩は江戸の花」と呼ばれるくらいに火事が多かったのですが、一度火が出てしまうと、被害はたちまち甚大なものになってしまいます。
もちろん、町火消もいましたが、今と違って水道が完備されている訳でもありません。当時の消化方法は風下の家を壊して燃えるものを減らして、類焼を防ぐのが精一杯でした。
そんな江戸で最大の被害を出すことになったのが「明暦の大火」です。
2日間3回にわたって出火したこの火事は、江戸城本丸、大名屋敷百六〇家、旗本屋敷七七〇家、町屋敷四百町が焼け、死者はおよそ10万人だったと伝わります。特に、火が迫ったため小伝馬町の牢屋敷が囚人を解放したところ、集団脱獄と勘違いした役人が浅草門を閉鎖。逃げ場を失った二万三千人が焼死したと伝えられています。
当時の江戸は80日以上も雨が降らず、強い風が吹き荒れた乾燥状態だったといわれています。確かにわずかな失火でも被害が拡大してしまいそうですが、江戸幕府がこの火事を逆手に取って都市計画を実行したのではないかという説が存在してます。