上杉謙信は同性愛者だった?いや、本当は女性だった?「上杉謙信、実は女性」説を検証してみる
「越後の虎」あるいは、「越後の龍」とも称される上杉謙信(うえすぎけんしん)。内乱続きだった国内を統一し、産業を振興して越後の国の発展を果たしました。皆さんはこの上杉謙信が「実は女性だった」という説があるのをご存知でしょうか。今回はこの「謙信女性説」について詳しく紹介していきたいと思います。
謙信女性説を初めて唱えたのは、サンカ研究でも知られる八切止夫(やぎりとめお)。もちろん、現在は検討すらされていませんが、その根拠をみていくとまんざらありえないこともないと思えてくるのは不思議です。
根拠として挙げられるのは、まず謙信の女遊びをした記録がほとんどないということ。謙信は自らを毘沙門天の化身と称し「生涯不犯」という姿勢を貫いており、婚姻をすることはありませんでした。
後にこれが一因となって謙信の死後越後は再び乱れるのですが、いずれにせよ謙信の周りには、まったくといっていいほど女性の影が全く見えてこないのです。
もちろん、このころは男色も当たり前のように行われていた時代ですので、同性愛者だったとも、早くから出家し仏門に入っていたため、女性を意図的に遠ざけていたとも考えられますが、現在伝わっている謙信に関する記述には女性の関しての記事はほとんどありません。
江戸時代以前の男色は決して「快楽のため」だけではない?恒例の儀式や同志の契りを交わす意味も大きかった
先日の記事でも少し触れましたが、江戸時代の書物や浮世絵には女性同士の同性愛に関するものが少ないのに対し、男性同士に関するものは、当時の男色(男性同士の同性愛)の環境がどのようなものだったかを知るには事…
また謙信は、第四次川中島や七尾城の戦いにおいて、戦闘中にもかかわらず毎月10日前後に腹痛を起こし、兵を引いていたという記録もあり、これは女性の月経のためではないかとも指摘されています。
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