封建社会に町人による自治を実現。新潟古町でいまだに語り継がれる「明和義人」とは?
江戸時代の新潟に一時的ではあれパリ・コミューンのような町人自治の町が誕生したことはご存知でしょうか。
話は、1767(明和4)年の頃にまでさかのぼります。
現在の新潟市古町の前身である新潟町は、かつて長岡藩による支配を受けていました。当時の新潟町は飢饉による米の流通の減少から新潟湊への入港量が減少しており、不景気と凶作で苦しんでいました。そこに財政難に陥っていた長岡藩が多額の御用金をかけてきました。
返済に困った町民は、商家を営んでいた涌井藤四郎を中心に寺に集まり、協議しました。藤四郎は、御用金の納入期限延期や、不正な徴税に一役買っていた町役人の公選制などを求める嘆願書を提案します。ところが、これが徒党として藩に密告されます。涌井は、首謀者とされ町奉行に出頭を命じられ、投獄されました。
このことに激高した町民は9月26日、早鐘の音を合図に町役人や密告をした豪商らの家を打ち壊し、町役人は逃げ去ってしまいました。
事態の沈静化を図った町奉行側は涌井を釈放。町に戻った涌井が、怒れる町人たちを制して事態を鎮静化させました。
当面の間、町役人がいなくなった新潟町ですが、町人同士で、夜道の見回り、米の買い占め防止、質屋の法外な高利の取り締まりなどといった取り決めを行い、町役人のいない地域の間の秩序を維持。約2カ月間、町民自治を実現しました。
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