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封建社会に町人による自治を実現。新潟古町でいまだに語り継がれる「明和義人」とは?

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長岡藩は新潟への派兵を試みますが、町民側が新潟港での藩兵の荷降ろし作業を拒否し、町民側の結束に長岡藩も涌井を総代として承認せざるを得ませんでした。

その後、長岡藩は町民懐柔の為、米1000俵の配給を実施し、さらに当事者であった町役人等を取り調べる為と称し町人側の関係者を次々に召喚。

その流れで長岡藩へ出頭した涌井らは藩側の策略により捕らえられ、町人のとりまとめ役だった涌井と須藤佐次兵衛(岩船屋佐次兵衛)は事件の首謀者としてすべての責任を背負い、投獄されたのち1年半後に処刑されました。

この一連の騒動を「明和騒動」といいます。

この話は古町芸妓の間で後々まで語り継がれ、明治になって、古町にある愛宕神社内に佐倉惣五郎を分霊した口之神社を建て、長岡藩に処刑された涌井と須藤を「明和義人」としてその御霊を祀りました。また昭和になると涌井と須藤の業績をたたえた記念碑が市民有志によって白山神社に建立されました。

 

 

 

新潟古町では毎年8月になると、涌井や須藤ら先人たちの功績を称えた明和義人祭が盛大に行われています。

明和義人を扱ったわかりやすい漫画「明和義人―封建の世で、町民自治に命をかけた新潟人がいた。」

 

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