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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第20話

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そういえば入門初日に、国なんとかという体躯の立派な兄弟子が工房の中を案内してくれた際、この部屋の事にも少し触れていたのを思い出した。この部屋にはかつて国政という高弟がおり、張り子の面を作っていたのだと。今その国政が何をしているかまでは聞かなかったが、とにかく今は国貞がこの部屋を気に入って使っているから、他の者は開けてもいけないし絶対に入ってはいけないと。

しかし、壁を覆い尽くす面の魅力に芳三郎は勝てなかった。

「すげえ・・・・・・」

思わず斑竹の縁側から部屋に上がり、面の一つを手に取ろうとしたその時である。

「お前、早くその部屋を出ろ」

障子の隙間から焦った声が聞こえ、慌てて廊下に出た。

「あ、国なんとか」。

呼んだのは、入門した初日にこの工房を案内してくれた兄弟子であった。

「国直(くになお)だよ。『国なんとか』ッちゃアうちの一門ア全員『国なんとか』だよ」

いいから隠れろ。

国直が強く手を引き、二人は向かいの部屋にパッと隠れた。ほとんど同時に廊下の向こうから国貞が来て、すっと張り子の面の部屋に入って行くのが見えた。

「危ねえ。初日に言っただろう、あの部屋は国貞の兄さんがいっち気に入っている部屋だから絶対エに入っちゃいけねえって」

国直はふうっと額の冷や汗を手の甲で拭う仕草をしてみせた。

芳三郎より五つ上のこの人物は豊国門下でも五本の指に入る筆達者で、十代で式亭三馬の挿絵を描いて名が売れた。今はこの工房を北に上がった新和泉町の長屋に一人暮らししている。

ざっくばらんな性格で、工房の中で唯一国貞とも垣根なく話す。随分逞しい身体付きなために、華奢で柳腰の国貞と並ぶと女形と立役のように見えた。面長の輪郭の中にきりりと整った眉、くちもとからは爽やかな白い歯が覗く大層な美丈夫である。すっきりとした一重の目もとは意思の強い利発な光を宿しているが、ニコリとすると目が線になって一気に優しい雰囲気になった。

「鯛、と呼んづくんな」。

「え?」

「画号は国直だが、本名が鯛蔵だから皆に鯛と呼ばれてる。だからおめえも鯛と呼んづくんな」

「へえ、分かりやした」

「偉いねえ、おめえは」

「は?」

幼子を褒めるようにされて気に食わなかった芳三郎は、粗暴な返事をした。鯛なら鯛らしくお造りにでもなっちまえ、とでも言ってやりたいところだ。

 

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