一体どういうこと?源頼朝のお墓になぜか刻まれた薩摩藩主・島津氏の家紋「轡十文字」の謎:2ページ目
薩摩へ行った島津忠久のお墓が、なぜ鎌倉に?
その島津忠久のお墓は、頼朝公のお墓から右奥に続く山道の少し先にあります。
(※山道は整備されていないため、参詣される方は北条義時の法華堂&お墓跡からの迂回ルートをおすすめします)
急な石段の上に山肌をうがった鎌倉地方特有の墓地「やぐら」が三つ並んでおり、その右端が島津忠久のお墓と伝えられます。
ちなみに中央は頼朝公のブレーンであった大江廣元、左端はその四男で後に中国地方の覇者となる毛利氏の祖先・毛利季光のお墓です。
しかし、お墓と言っても、鎌倉の地で亡くなった可能性の高い大江廣元はともかく、薩摩に行った島津忠久、中国地方へ移った毛利末光が亡くなった後、わざわざ遺体を鎌倉まで運んで埋葬したとは、少し考えにくいです。
恐らく、後世(頼朝公のお墓を整備した同時期)の人々が彼らの功績を称えようと「頼朝公との近さ」が感じられる場所に改めて(遺体とは別の)お墓を造営することで、その偉大さを後世に伝えたかったのでしょう。
その意図は、彼らのお墓がある山のふもとにある北条義時の法華堂&お墓の入り口に立つ石燈籠に刻まれた「長(州)藩」の文字と、毛利氏の家紋「一文字三ツ星」からも察せられます。
(※長州藩主である毛利氏の出自は島津氏よりも明らかですが、彼らもまた祖先を大切にする思いが強かったのでしょう)