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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第18話

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◾︎文政八年、一月

ぱちんという音で水が少し跳ねた。

黒塗りの水桶の底に切断した茎の黄緑がゆらゆらと滲んで拡がる。

豊国の弟子である歌川国貞は、蕨手の鋏をそっと置くと、自分が水揚げした芍薬の花を黒漆の花器に生けた。

少し時間は掛かったが、我ながら水際立っていると国貞は思った。

水際から斜めに抜きでる枝と水面との境界が美しく映え、五つある花房の個々と引き締まった葉の生命力がすっくと立ち上がる。

出来栄えに満足した国貞が、それを床の間に飾ろうと静かに細い腰を上げた時、

「国芳・・・・・・」

背後から声がして、国貞は動きを止めた。

「国芳は、どうしたか・・・・・・」。

まただ。

もう何度目だろうか。

床に臥した師匠の豊国が、譫言のようにあの名前を呼ぶ。

国貞は一瞬動きを止めた以外には表情ひとつ動かさず、掛け軸との調和を考慮し最善の場所にことりと花器を置いた。

床の間の空間が、完成した。

それは確かに、瑕(きず)一つない「完璧」という言葉の具現した瞬間であった。

しかし、

(冷たい。・・・・・・)

国貞の指先はひどく冷たい。

いつからこんなに冷えているのか、もう思い出せない。

ただ、ずいぶん前から己の身体に血が通っていないような心地さえする時がある。

掛け軸と自分の生けた花が生み出す空間美も、途端にひどく退屈なものに思えてきた。

「国芳は今、本所の知り合いの宅に間借りしています」

国貞は薄い唇に得体の知れない笑みを浮かべて、床に伏した師匠の豊国を振り返った。

豊国の土色の顔がこちらに向けられ、熱に潤んだ目が虚ろに国貞を捉えた。

 

「そうか。・・・・・・元気なのか」

声が嗄れて聞き取りづらい。

「はい、変わりないようです」

国貞は尖った膝をそっと枕頭に寄せ、水盥で手ぬぐいを濡らして豊国の額の汗を拭った。

「良かった。今しがた夢にな、出て来やがったのよ」

「夢にしか、出て来やがらねえ」

口の中で呟いた国貞の声は、国芳の事を憎み嘲る声であった。

「本当に、な・・・・・・」

豊国は乾いた唇に、薄っすら苦笑を浮かべた。

「大勢の弟子を世話してきたが、こんな今際の際までわっちに心配かけやがんなア国芳だけだ」

「おやめくだせえ、先生。先生はこれから良くなるんですから。私にもまだまだ先生のご指南が必要です」

「いや、わっちにゃア時間がねえ。それくらい、手前で分からア」

「今が一番病の辛い時だから、そのようにお考えになるんでさア。さあ、薬湯をお飲みくだせえ。苦くても残しちゃあいけやせん」

ああ、と豊国は国貞の手を借りて床から身を起こし、国貞が手際良く差し出した湯呑みに口を付けた。病の方が尻尾を巻いて逃げるような丈夫な男が、今はすっかり肉も落ち、痩せこけて薬漬けになっている。

豊国は憔悴していた。

骨の浮いた手は震え、乾燥したくちびるの端から薬湯がこぼれた。

かつて星の数ほどの役者絵や緻密な風景画を描き江戸で一世を風靡した天才絵師の面影は、今やどこにも残ってはいない。

 

 

 

 

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