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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第11話

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暮れ六つ。

一階奥の内証(ないしょう)で楼主が簾を下ろし、神棚に手を合わせ、鈴を景気良くしゃんしゃんと鳴らした。それを合図に新造が冴えた音で三味線を一つはじけば、若い衆が麻紐でまとめた下足札でカランと高らかに応じる。張り見世に並んだ新造たちが三下りに調子を合わせて清掻(すががき)を始め、下足札も調子を取って打ち上げる。

その間に粉黛の良い香りのする姉女郎たちが二階からぱたぁんぱたぁんと上草履の音とともに天女のように降りてきて、格子の奥の張見世に並ぶ。皆並び終えると三味線の曲が変わる。

籠は恨めし 心ぐどぐどあくせくと 恋しき人を松山は やれ末かけて かいどりしゃんとしゃんしゃんともしおらしく 君が定紋 伊達羽織 ・・・・・・

夜見世のはじまりは、まさに現から夢幻に向かって戸が開かれる瞬間であった。

葛飾応為「吉原格子先之図」Wikipediaより

お職を張るみつは、一番最後に階段を降りる。

他の女郎たちが張見世に並び終えたところで、障子の向こうから声が掛かった。

「花魁、紫野花魁。そろそろですぜ。・・・・・・」

この心地の良い低音の持ち主は、肩貸し役の直吉(なおきち)である。みつが唯一自分の部屋に近づくのを許している若い衆であった。新造の美のるが妹なら、この直吉の事は弟のように可愛がっている。

「あいな、今出るわ」

みつは撫ぜていた飼い猫のぶちを床に下ろし、立ち上がった。

花魁は引手茶屋までの道中、転ばないように若い衆の肩に手を置いて歩を進めるが、みつの場合は必ず直吉である。

「直坊。階段降りるのに、肩を貸して」 「あいよ」

みつの言葉で直吉は頷いてくるりと後ろを向いた。直吉の肩は、手を置くのに安心感のある男らしい肩だ。

「つるっと転ばねえでくだせエよ」

「つるっと行った時に支えるのが直坊の役目でしょう」

「仕方ねエやなこの人は」

直吉が破顔すると体格に似合わぬ可愛い八重歯がこぼれた。

みつが直吉の肩を借り、はたりはたりと下に降りた。

直吉は若い衆の中でも一番背がすらりとして、様子がいい。

みつが六寸もある三枚歯を履いてようやく肩に手が置きやすくなるというほどに、直吉は上背があった。

紫野花魁が直吉の肩に繊手を添え、静かに引手茶屋に向かう姿は、浮世絵から抜け出したようだと人は口々に噂した。

この日も見物人の感嘆の溜め息に包まれながら、みつは直吉の肩に手を添え、禿に番頭新造、そして振袖新造の美のるを率いて引手茶屋に向かった。いつものように番頭新造が茶屋の花色のれんをちらりと分けて「もしえ」と女将に声を掛ける。後からみつが顔を出すと、

「紫野花魁!お客はんがこちらでお待ちですよ」

肉置きの豊かな茶屋のお内儀の案内で、みつは座敷に通された。

 

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