鳴かぬなら…戦国三武将を表現した有名なあの詩は誰が詠んだか知っていますか?:2ページ目
第九代平戸藩主・松浦静山とは?
平戸藩世嗣・松浦政信の長男として江戸に生まれます。平戸は現在の長崎県ですね。彼が生きた時代は宝暦10年(1760-1841)。静山が生きている間、江戸幕府の田沼意次が老中となったり、天明・天保の大飢饉が起きたり、晩年は大塩平八郎の乱があったり。全国が乱れ、財政が非常に苦しい藩があった時代でもありました。
側室の子だった静山。父が早世し、12歳で祖父の養子となり16歳で家督を相続します。幼い頃から記憶力に優れ学問ができましたが、病弱だったため文武両道を目指し、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)免許皆伝の腕前を持つほどになりました。
君主として維新館という大胆な名前の藩校を設立したり(幕府に咎められたが古代中国の詩経の一説です、といって難を逃れたそう)、身分にとらわれない人材登用も行い、藩政改革を成功させます。
蘭学やキリスト教にも関心を寄せたというので、好奇心あふれる殿様だったのでしょう。
あっさり47歳で家督を譲ったあとは、随筆『甲子夜話』を書き綴ります。1821年の甲子の日に起草したあと、20年間書きためた甲子夜話はなんと278巻にものぼります。
ちなみに「こうしやわ」でもなく「きねやわ」でもなく「かっしやわ」と読みます。その甲子夜話に記されたのがこの記事の本題である「ホトトギス」の詩。
ホトトギスは読み人知らず
それはこんなくだりです。
夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。
されども鳴かざりければ、なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様
このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
杜鵑、時鳥、郭公は全てホトトギスと読みます。この鳥は他に杜宇、蜀魂、不如帰、子規などもあり非常に異名が多い。ややこしい!
仮託というのは「他の物事を借りて言い表す」こと。静山は要するに夜誰かと談話しているときに「郭公(ほととぎす)を(3人に)贈ったら何と詠むか」という他人が詠んだ狂歌を記しただけ。
3ページ目 本当は静山自身が詠んだのに、それを伏せている??