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【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第5話

【小説】国芳になる日まで 〜吉原花魁と歌川国芳の恋〜第5話

障子をすぱんと開くと佐吉と呼ばれた男が綿入りの夜着を被って長火鉢の傍に寝そべっていた。茶碗酒を舐めつつ、蓋を外した瓦灯の灯りでゆったり黄表紙を読んでいる。

「落っこちた!」

国芳の慌てた声で、佐吉は役者のように整った眉を上げた。

「どこに?」

「とおんと!」

「あ、もしかして肥溜め?」

「違わア馬鹿!惚れたってんだよ、女に!」

「なんだ、そっちか」

佐吉はへらへら笑いながら身を起こした。

すだれのような長いまつげの奥に、見事な切れ長の目が透ける。小鬢と月代はこざっぱりと潔く、横鬢の毛が一条(ひとすじ)しどけなく色白の頬にかかっている。

恐ろしいほどの、色男だった。

「今度はどこの姐さんだい」

「吉原」

「へえ、あんた北(よしわら)に行く金なんぞねえだろ。あれか、蹴(け)ころか」

蹴ころとは、吉原遊廓内で最下級の女郎だ。彼女たちは見世に置かれているわけではなく、羅生門河岸に寄り集まり、犬小屋に毛が生えた程度の小屋を並べている。梅毒(かさ)や年齢で見世に居られなくなった女郎たちがひしめく、掃き溜めのような場所である。無論好んで訪れる客は居ない。何かの拍子に誤って近付いて、恐れおののき逃げ出す客を蹴ころばすようにして床に引きずり込むから蹴ころという。

「まさか。よく分かんねえけど、どっかの見世の花魁って言ってた」

「いやもう、この際だから真剣に言うけど、吉原花魁なんざやめとけって。芳さんには土台無理だよ」

佐吉が手をひらひらさせながら言うと、国芳は鼻を膨らませて反駁した。

「いや、わっちゃあ本気だ」

「そんなら、北斎とどっちが好き?」

「北・・・・・・花魁!」

「ふうん、初めて芳さんの中で女が北斎を上回ったな。それほど本気なのか。そんなら名前を言ってみねえな」

「名は、・・・・・・」

国芳は急に少年のように頬を染めて俯き、そっと言った。

「おみつってんだ」

「なんでえ、そりゃ本名じゃねえか。源氏名は」

「分からねえ」

「あんだい芳さん。そんじゃ探しようもねえや」

「あ、でも、見世は京町一丁目の岡本屋だった」

「やあ、そりゃ驚き桃の木だな。京町一丁目の岡本屋っちゃア、中々間口の広い見世だぜ。半籬(はんまがき)の花魁とあっちゃ、やっぱり芳さんには無理だ。とっとと諦めて相応のとこにするこった」

「嫌だ。わっちゃあ惚れたんだ」

「そうは言ってもよ」、

佐吉は言いにくそうに口を開いた。

 

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