『ブラッサム』珠が働く「悠楽軒」は本当にあった!わずか18日のバイトで芥川龍之介らと交差した運命の場所:2ページ目
文学者たちの社交場は、中央公論社が近くにあったから?
燕楽軒が文学者たちから愛された理由の一つが、その立地条件でした。
店の近くには、当時の文壇に大きな影響力を持っていた出版社・中央公論社があったのです。
文芸雑誌『中央公論』の編集長として活躍していた滝田樗陰(たきた・ちょいん)も度々来店。店には樗陰だけでなく、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄、佐藤春夫、今東光(こん とうこう)らが出入りしていました。
現代で言うならば、人気作家や編集者たちが打ち合わせのために集まるレストランという位置付けでしょう(もちろん、食事そのものも楽しみの一つだったことでしょう)。
しかし、燕楽軒の意義はそれだけではありません。
作家と編集者、あるいは文学者同士が顔を合わせることによって、新しい仕事や交流が生まれる可能性もあったのです。
稀代の女流作家・宇野千代が働いた18日間
やがて燕楽軒で、のちに稀代の女流作家となる人物が給仕として働き始めます。
給仕として採用されたのが、後に『色ざんげ』『おはん』などの作品で知られる小説家・宇野千代です。千代は恋人・藤村忠とともに東京へ移り住み、生活のために選んだ仕事の一つが燕楽軒での給仕でした。
働いた期間は、わずか18日間だったと伝わります。しかし、この短い経験が、千代のその後の人生に影響を与えることとなりました。
千代は燕楽軒で、芥川龍之介や久米正雄、今東光と知遇を得ます。当時の文学者たちと接する機会を得ます(実際に今東光との交流は、芥川龍之介の短編小説『葱(ねぎ)』に影響したともいわれています)。
そして、千代の作家人生にとって大切な人物が、先ほど紹介した滝田樗陰でした。燕楽軒の常連客だった滝田樗陰は、食事を終えると、給仕をしていた千代に五十銭銀貨をチップとして置いていったと伝えられています。
当時の五十銭は決して小さな金額ではありません。千代にとって、樗陰は印象深い客の一人となります。
その後、千代は大正10(1921)年、『時事新報』の懸賞小説に応募した『脂粉の顔』が一等に選ばれ、本格的に作家としての道を歩み始めます。
さらに、執筆した『墓を発く』を中央公論社の滝田樗陰へ送っていました。この作品は大正11(1922)年の『中央公論』に掲載されています。
かつて燕楽軒で給仕をしていた女性が、文学者たちと同じ雑誌に作品を発表するようになったのです。

