武功も出自も「記録ゼロ」でなぜ出世?天下一の補佐役・豊臣秀長を支えた伊丹甚太夫とは何者なのか:2ページ目
無事これ名馬の活躍
何はともあれ、秀長への仕官を果たした甚太夫は知行400石を拝領しました。詳しい記録は残っていないものの、秀長に従って各地を転戦したことでしょう。
記録がないということは、特筆される武勲はなかったのかもしれません。それでも無事に生き延びて、主君を支えたことは十分に立派な活躍と言えます。
やがて天正19年(1591年)1月に秀長が世を去ると、その婿養子であった豊臣秀保(ひでやす。姉ともの三男)に引き続き仕えました。
この年に新たに知行600石を加増され、合わせて1千石を領するようになったそうです。
しかし文禄3年(1594年)に秀保が若くして世を去り、大和大納言家(秀長家系)は断絶してしまいました。
甚太夫は牢人となり、しばらく歴史の表舞台から姿を消します。
再び豊臣家臣に
秀吉に召し出される慶長3年(1598年)2月までの間、甚太夫がどのように過ごしたかはよくわかっていません。
ちなみに秀長遺臣の多くは、大和大納言家が断絶した直後に秀吉の直臣として再仕官していますが、甚太夫はどういう事情があったのでしょうか。
ともあれ、数年間のブランクを経て豊臣家臣に返り咲いた甚太夫は、大和・伊賀・紀伊の3ヶ国に合計1860石の知行を賜りました。
※一説には1866石とも言われますが、この6石差はどこから来たのでしょうね。
その後、甚太夫に関する記録は姿を消し、再び歴史の表舞台に現れることはありませんでした。
果たして甚太夫がどのような晩年を送り、どのように最期を遂げたのか、知る人は誰もいません。

