【風、薫る】バーンズ先生の“6つの種”は生きていた!ツヤとヒデ11年ぶり再会で見せた予想外の姿と伏線回収:2ページ目
史実でも看護婦養成に貢献した大関和と鈴木雅
史実では、直美のモデル・鈴木雅もりんのモデルである大関和も、看護婦の養成に貢献しています。
⚫︎鈴木雅…東京看護婦講習所を開設
「慈善看護婦会」を開業した。この会は明治29年(1896)に「東京看護婦会」と改称され,東京看護婦講習所も併設した。講習生は 20 歳から 40 歳の者で,3 年間家事を主体的に行う必要がない者とされ,明治32年(1899)時点で 50 名以上が在籍していた。
修業期間は 1 年間で,最初の 6 ヶ月間は学科を学び,残りの期間は実習を行った。続く研究期間が 2 年間で,この時期の講習生は派出看護を担当した。
(派出看護婦会の存続と転換 山下麻衣)
⚫︎大関和…大関看護婦講習所を開設
和は明治42年(1909年)11月3日、大関看護婦会を設立し、大関看護婦講習所を開所しており、後進の育成と派出業務を通した実践活動に専念しました。(上越市HP)
病院というシステムの中で女性が働く大変さを知るヒデ
ドラマでは、「恵風看護婦会」を設立して“看護の種”を蒔き、バーンズ先生の夢だった「看護婦が日本のどんな病院にも当たり前にいるようになる」ために、また新しい一歩を踏み出したりんと直美。
最終回が近づいてきた今週に『風媒花』というテーマを持ってきたのは、以前の伏線回収の意味だったのですね。
さらに、りんにとっては苦い思い出となっていた土居ヒデと再会するサプライズもありました。
彼女は、帝都医大病院・看護科の生徒でしたが、講師であるりんの教え方に疑問や不満を持ち辞めていったのでした。
特に、ヒデは親しくなったツヤが病院をクビになったことを止められないりんに怒りを抱えていました。(あれは、りんではなく大学病院の責任だと思うのですが…)
そんなヒデは看護婦にはならず、「医者」になっていました。
そして、病院代表として柳生書記官に陳情するために「内務省衛生局」を訪れたところをバッタリりんと直美に再会したのでした。
ヒデは、3回医師試験を受けてやっと合格。「女の医者が自分しかいないので何もかもやらされて大変だ」ともいっていました。
病院というシステムの中で女性が働く大変さを体感したのでしょう。「今なら先生方がご苦労されていたのも……」と、昔の態度をりんに謝罪しました。
向上心の塊だったヒデは、「医療への道」は諦めなかったのですね。これも、りんが蒔いた“看護の種”が成長したゆえのことでしょう。
「女で医者になるなんて大変だったでしょ」と直美。
この時代、女性が医者になることは本当に大変だったのです。これはまた、次回の記事でご紹介しましょう。

