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『豊臣兄弟!』信康見殺しの代償!なぜ徳川四天王・酒井忠次(天野ひろゆき)だけ家康から“冷遇”されたのか?

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なぜ酒井家だけが“冷遇”されたのか?

このときの家康の心情はいかばかりのものであったのでしょうか。おそらくは妻と子の両方を失うという事態に悲観に暮れていたことは間違いないはずです。そして信康の武田内通をはっきり否定しなかった、忠次のことをどう考えたのでしょうか。

実はこの後も忠次の立場には、何の変化もありませんでした。本能寺の変後の天正壬午の乱では奥三河・伊那経由で信濃へ侵攻、小牧・長久手の戦いの際にも、森長可の軍勢を奥平信昌らと共に奇襲して敗退させています。

そして1586年(天正14年)10月には、従四位下・左衛門督に叙位任官されました。このような忠次の姿はまさに「徳川四天王筆頭」「家康第一の家臣」というべきものだったのです。

ところが……。

忠次は1588年(天正16年)に隠居して、嫡子家次に家督を譲ります。このときの酒井家の知行は下総臼井で3万7千石でした。そしてその8年後の1596年(慶長元年)、忠次は京都で70歳の生涯を閉じるのです。

この間、酒井家には一切の加増がありませんでした。同じ四天王の井伊直政は上野箕輪12万石、本多忠勝は上総大喜多10万石、榊原康政は上野館林10万石、それと比べて酒井家の所領はなんと少ないことか

これは冷遇以外、なにものでもないでしょう。もしかしたら家康は、信康を見殺しにした忠次を心の底で恨んでいたのではないでしょうか。しかし大きな功績を挙げてきた忠次をすぐに冷遇したら、徳川家臣団を保てなくなる。そう考えるとこの酒井家の所領の少なさが理解できると考えるのです。

そして徳川幕府は家康が死に秀忠の代になると、手のひらを返したように酒井家を優遇します。まずは上州高崎5万石に加増され、さらに越後高田10万石を経て、最終的には出羽庄内13万8千石で明治維新を迎えました。

史実は、家康が忠次を恨んでいたとは明確にしていません。しかも信康事件の後も、忠次は徳川家を全身全霊で支え続けます。

しかし、酒井家の石高だけは伸びませんでした。そこには家康だけが知る、忠次に対しての複雑な思いがあったと考えられるのです。

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※参考文献
川村真二著 『徳川四天王 家康に天下を取らせた男たち』PHP文庫
本郷和人著 『戦国史のミカタ』 祥伝社新書

 

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