『豊臣兄弟!』信康見殺しの代償!なぜ徳川四天王・酒井忠次(天野ひろゆき)だけ家康から“冷遇”されたのか?:2ページ目
信康事件のカギを握った男・酒井忠次
ついに「打倒秀吉」に立ち上がった家康が出陣の触れを出すと、「御免仕る」という声とともに徳川家臣団が現れます。
その最前列には、徳川四天王の4人である酒井忠次・本多忠勝(夏生大湖)・榊原康政(栗原類)・井伊直政(阿久津仁愛)が居並びますが、その左端、他の3人に比べちょっとおじさんぽい人物が酒井忠次でした。
では、なぜその忠次が信康殺害のキーパーソンなのかを説明する前に、彼の経歴と徳川家での働きぶりについて簡単にお話ししましょう。
忠次は、1527年(大永7年)、松平氏の譜代の家臣・酒井忠親の次男として三河井田城に生まれました。元服してからは、家康の父・松平広忠に仕え、竹千代が今川家の人質として駿府に赴くときには、随行した家臣として酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)でした。
1556年(弘治2年)、信長の命を受けた柴田勝家(山口木馬也)が千余りの兵で福谷城(うきがいじょう)を攻めたとき、その城代であった忠次は松平勢を率いて、鬼柴田と異名を取った猛将勝家を敗走させています。
そして1560年(永禄3年)5月の桶狭間の戦いの後には徳川家家老となり、1563年(永禄6年)に起きた三河一向一揆では、酒井家の多くが一向一揆側に与したのに対し、忠次は家康に従っています。
そして1565年(永禄8年)、家康が吉田城を落すと、忠次は吉田城代として東三河の旗頭として統治を任されました。ちなみに西三河は石川数正(迫田孝也)が統治を任せられており、まさに忠次と数正が家康の両輪として機能していたことになります。
このような忠次の軍事的才能は信長にも認められました。それは武田勝頼との決戦、長篠の戦いのときでした。『豊臣兄弟!』では、この戦いはわずか5秒ほどのナレーションで済まされてしまいましたが、実はその軍議の席で忠次は重要な役割を演じていたのです。
『常山紀談』には、次のような話が記されています。
「忠次は武田勝頼の本陣の後方に位置する鳶ヶ巣山砦を奇襲して落とすことを提案した。しかし信長は『そのような小細工は必要ない』と叱責した。ただ、諸将が皆退出すると密かに忠次を呼び寄せて、『先ほどは敵の間者が紛れているのを恐れて却下したが、お前の発案は理にかなった作戦だ。指揮はお前に任せるから、直ちに作戦を実行せよ』と命じた」
信長の命を受けた忠次は、すぐに鳶ヶ巣山砦を攻め、守備隊を壊滅し砦を占領します。背後に不安を抱えた武田勢は織田・徳川連合軍との決戦にのぞまざるをえなくなり、結果的に大敗北を喫したのです。つまり忠次の策が、長篠の戦い全体の勝敗を左右する大きな働きを果たしたのでした。
この忠次の戦振りに信長は、「忠次は前だけでなく後ろにも目があるかのような男だ」と絶賛したといわれています。
そもそも忠次は他勢力との取次役、つまり交渉役も任されており、武田信玄や信長との交渉も担っていました。だからこそ、信長は信康謀反の報を得た際、信頼していた忠次を安土城に呼んで、信康の動向について質問を行ったと考えられます。
信長の質問とは、「信康が本当に武田と通じていたか」その一点に絞られたのではないでしょうか。ここで忠次が「否」とはっきり答えれば、おそらくは信康の運命も違ったものになったと思われます。
しかし、少なくとも後世の逸話では、忠次は信康の謀反を明確には否定しなかったとされています。「信康様の謀反はありえない!」と断定しなかったといわれているのです。
それが信康の処断につながりました。こうして徳川家の後継者としてその将来を嘱望された信康は切腹して果てたのです。


