【豊臣兄弟!】徳川四天王、猛将・本多忠勝(夏生大湖)が“最期に残した言葉”と家康を救った3つの危機:3ページ目
戦場の猛将から藩政における名君へ
このような働きから、忠勝は1590年(天正18年)、家康の関東移封にともない、上総国大多喜10万石を与えられました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでも、忠勝は戦場を駆け、多くの首級を挙げて東軍の勝利に貢献します。
また、毛利家の吉川広家をはじめとする諸大名に、井伊直政と連署した書状を送るなど、東軍方につける工作にも活躍しました。
この功績などによって、翌1601年(慶長6年)、忠勝は伊勢桑名10万石へ移封されます。
桑名は古くから「十楽の津」と称された商業都市でした。忠勝は桑名に入ると、城郭の整備や城下町の町割りを進め、東海道の宿場町として発展する基礎を築きました。
桑名は東海道と伊勢湾を結ぶ交通の要衝であり、尾張・美濃・近江方面にも通じる重要な地点でした。その桑名に忠勝を置いたことには、家康の明確な意図があったと考えられます。
1610年(慶長15年)、忠勝は桑名で死去しました。享年63。
忠勝の臨終に際して残された言葉として、次の言葉が伝わっています。
「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍といふ」
「武功を立て、敵の首を取ることだけが武士ではない。困難に直面したときに退かず、主君とともに最後まで忠節を守り抜く。これこそが武士なのだ」という意味です。
本多忠勝の人生は、数多の戦場の第一線を駆け巡りながら、家康とともにその天下取りを支えた人生であったと言っても過言ではないでしょう。
しかし、忠勝をして単に戦国最強の猛将の一人というだけでは語り尽くせません。その生涯を振り返ると、「家康に過ぎたるもの」と称された理由が、少し見えてくるのではないでしょうか。
次回は、小牧・長久手の戦いでは忠勝と加藤清正との一騎打ちのエピソードを交えながら、忠勝についてもう少しだけ掘り下げたいと思います。どうぞ、ご期待ください。
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※参考文献
市橋章男著 『家康を支えた三河武士 本田忠勝 井伊直政』正文館書店岡崎
本郷和人著 『戦国史のミカタ』祥伝社新書




