【豊臣兄弟!】徳川四天王、猛将・本多忠勝(夏生大湖)が“最期に残した言葉”と家康を救った3つの危機:2ページ目
家康の危機を何度も救った忠勝
勇猛な逸話には事欠かない忠勝ですが、特筆すべきは、家康の危機を何度も救っていることでしょう。
ここでは、そのなかでも代表的な三つの出来事を紹介します。
一つ目は、1572年(元亀3年)の「一言坂の戦い」と「三方ヶ原の戦い」です。
将軍・足利義昭の働きかけを受けた武田信玄は、ついに西上作戦を開始しました。
武田勢が浜松城(当時の徳川家の本城)と、支城の掛川城・高天神城を結ぶ要衝にある二俣城を包囲したとの報を受けると、家康は自ら威力偵察に出ます。
しかし、運悪く一言坂で武田本隊と遭遇。その猛攻の前に防戦を強いられた家康を助けるため、忠勝は殿軍を務めました。そして、家康を無事に退却させ、自らも撤退に成功したと伝えられています。
「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」。この言葉は、一言坂での忠勝の奮戦ぶりを見た武田方が、その武勇を称えたものとして知られています。
さらに、その後に起きた「三方ヶ原の戦い」でも、忠勝は徳川軍の一翼を担って奮戦。敗走する家康を逃がすため、ここでも踏みとどまって戦ったと伝えられています。
そして二つ目が、1584年(天正12年)、豊臣秀吉(池松壮亮)との全面対決となった「小牧・長久手の戦い」です。
羽柴秀次、池田恒興らが別動隊として出陣したとの報を受け、家康はその撃破のために小牧山城を出陣しました。このとき忠勝は、小牧山城の留守を任されていました。
家康は長久手で羽柴方の別動隊を撃破し、池田恒興、森長可らを討ち取りますが、秀吉本隊が家康勢を追撃するため動き出したとの報が入ります。
そこで忠勝は、家康本隊が小幡城を経て小牧山城へ退く時間を稼ぐため、わずかな手勢を率いて秀吉の大軍の前に立ちはだかったのです。
これに意表を突かれたのか、羽柴軍は進軍を止め、その間に家康本隊は無事に小牧山城へ戻ることができました。
この豪胆な振る舞いによって、忠勝は秀吉から「東国一の勇士」と賞賛されたと伝えられています。
そして三つ目が、三方ヶ原の戦いと同様に、家康最大の危機として語られる、いわゆる「神君伊賀越え」です。
1582年(天正10年)、京都で織田信長・信忠父子が明智光秀に討たれる本能寺の変が起きます。
このとき家康は、信長の勧めで忠勝ら少数の家臣とともに堺見物に出かけていました。変事の報を受けた家康が京都へ戻ると主張するのに対し、忠勝はそれを諫めたとされます。
その結果、家康一行は伊賀を越えて三河へ帰還することになりました。しかし、この逃避行には、明智方の追っ手や落ち武者狩りなど、大変な危険が待ち構えていました。
案の定、木津川を渡る際に追っ手が迫っていることが判明。忠勝は対岸に渡ると、渡船の船底を槍の石突で突き破り、追手が船を利用するのを防いだと伝えられています。


