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『逃げ若』もう1人の“逃げ上手”!太平記に見る軍神・楠木正成の「負けない戦い方」とは

『逃げ若』もう1人の“逃げ上手”!太平記に見る軍神・楠木正成の「負けない戦い方」とは:3ページ目

一つの城に固執しない「城のネットワーク」

特に注目したいのが、楠木軍の戦争が一つの城だけで完結していない点です。

元弘3(1333)年には、赤坂・千早・吉野など複数の拠点で戦闘が展開されました。
正成たちは敵を自らの勢力圏へ誘導。複数の城との繋がりを利用して戦うことを心がけていました。

いわゆる一つの城を巨大化し、乾坤一擲の勝負に出る戦い方ではありません。
城が危険になれば別の拠点へ移動。必要であれば山中へ姿を消す。敵の軍勢を各地へ引きずり回しました。
当然、大軍である幕府軍の側には大きな負担が発生してきます。

従軍する兵士が多ければ、日数分の食糧も必要です。包囲期間が延びれば士気も低下していくものです。

ここで見るべきは、正成が重要視していたのが「敵を何人討ち取ったか」ではない点です。いわゆる敵にどれだけ時間と兵力を浪費させたかに重点を置いていたようです。

正成の籠る千早城を幕府軍が包囲している間、天下国家の情勢は大きく動いていました。
後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出し、足利高氏(のちの尊氏)が幕府から離反。新田義貞も挙兵し、鎌倉を攻め滅ぼします。

このとき、確かに正成は目的を達成していました。
正成は幕府軍そのものを千早城で全滅させたわけではありません。しかし、倒されなかったこと自体が大きな戦果になったのです。

4ページ目 「逃げるべき時」を知っていたからこその名将

 

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