『逃げ若』もう1人の“逃げ上手”!太平記に見る軍神・楠木正成の「負けない戦い方」とは:2ページ目
千早城では「逃げない」のに逃げ上手だった?
最初の倒幕の戦は、後醍醐天皇の捕縛と倒幕軍の鎮圧によって終わります。
しかし乱から2年後の元弘3/正慶2(1333)年、正成は再び倒幕軍に参加。千早城の戦いで天下に名を轟かします。
『太平記』は、この時千早城を包囲した幕府軍を「百万騎」と表現(もちろん胡蝶です)。正成軍を千人未満と記します。
実数は数万人規模の幕府軍に対して、正成方の千人未満という数字については比較的実数に近いものでしょう。それでも圧倒的な兵力差です。
ならば、なぜ正成は負けなかったのでしょうか。理由は、敵の大軍とまともに戦わなかったからです。
千早城は金剛山地の険しい地形に築かれていました。大軍が一度に突撃できる場所ではなく、攻撃側は狭い斜面を登らなければなりません。
正成方は千早城の上から石を落とし、登ってくる幕府軍へ矢を浴びせました。
この「石礫による攻撃」は『太平記』だけの伝説ではありません。同時代史料の『楠木合戦注文』にも、幕府方の武士が山上からの石礫によって負傷した記録が残っています。
一方、『太平記』にはさらに派手な作戦も登場します。
甲冑を着せた藁人形を配置して幕府軍を誘い出す。
大梯子を城に架けさせ、敵兵が登ったところで油を注いで焼き落とす。
などです。
こうした逸話については軍記物語としての脚色を考える必要はあるでしょう。しかし正成が地形を利用して幕府軍を長期間足止めしたこと自体は確かなものでした。
つまり正成は、千早城では逃げていません。しかし戦い方そのものは徹底的に「逃げ上手」でした。
敵が望む正面決戦を避けて被害を最小限度にとどめ、狭い場所へ誘導し、大軍という長所を使わせない。
言い換えれば、正成は敵から逃げたのではなく、「敵が有利になる戦い」から逃げ続けたた戦い方でした。
