日本初の女子帝大生・丹下梅子とは?片目の失明を乗り越え、40歳から科学の道を切り拓いたその生涯【前編】
明治から昭和にかけて、日本の女性が高等教育を受けることは、今ほど当たり前ではありませんでした。ましてや、大学で化学や物理学を学び、研究者として生きていく女性となれば、さらに少なかった時代です。
そんな時代に、40歳で帝国大学に入り、その後も研究を続けた女性がいました。彼女の名前は、丹下梅子(たんげ・うめこ)です。
片目を失っても、学ぶことをやめなかった
梅子は1873(明治6)年3月17日、鹿児島の金生町に生まれました。3歳のとき、手にしていた箸で右目を傷つけ、失明してしまいました。現在の感覚からすれば、幼い子どもが片目を失うというのは、それだけでも大きな出来事です。
しかし、梅子はその後も学ぶことをやめませんでした。鹿児島県立女子師範学校へと進みました。当時、女性にとって師範学校は、専門的な教育を受け、社会に出るための重要な進路でした。梅子も卒業後は小学校の教師となります。
教師として働き始めた梅子でしたが、学問への関心が薄れることはありませんでした。むしろ、ここから彼女の人生は大きく動き始めます。1901 (明治34)年、28歳になった梅子は日本女子大学校に入学しました。
現在の日本女子大学につながる学校で、梅子は第1回生です。すでに教師として働いていた梅子にとって、これは人生の大きな転機でした。
大学を卒業すると、梅子はそのまま大学に残り、日本の薬学・化学の発展に大きな功績を残した長井長義のもとで助手として働きました。
さらに、文部省の中等化学教員検定試験にも合格しています。女性として初めての合格でした。このころには、化学は梅子にとって単なる勉強ではなく、自分が専門的に取り組む学問になっていました。
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