『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由
豊臣秀吉(池松壮亮)と徳川家康(松下洸平)・織田信雄(山脇辰哉)連合軍との間で、1584年(天正12年)3月から繰り広げられた小牧・長久手の戦い。
同年11月、信雄が秀吉と単独講和を結ぶと、家康も次男・於義丸(のちの結城秀康)を秀吉の養子として大坂へ送り、和議が成立しました。
こうして戦いは終結したものの、秀吉と家康の間には、なお冷戦ともいうべき緊張関係が続いていたのです。
そんななか、徳川家中を揺るがす大事件が起こります。
家康の片腕とも称された重臣・石川数正(迫田孝也)が、突如として徳川家を出奔し、秀吉のもとへ走ったのです。
いったい数正は、なぜ長年仕えてきた家康のもとを去ったのでしょうか。
今回はNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」の描写も踏まえながら、石川数正の出奔事件の真相について考察します。
家康が最も信頼した重臣・石川数正
石川数正の経歴については、Japaaanでもさまざまな記事で紹介されていますので、ここでは要点に絞って見ていきましょう。
数正は1533年(天文2年)生まれとされ、1543年(天文11年)生まれの家康よりも10歳ほど年上でした。
石川家は松平氏に古くから仕えた譜代の家柄です。数正の一族には、家康の母・於大の方と姻戚関係にある人物もおり、徳川家とは譜代というだけでなく、一門衆的な関係がありました。
そうしたこともあってか、数正は家康がまだ今川家の人質として駿府で暮らしていた時代から、近侍として仕えていたとされます。
桶狭間の戦いの後、家康が三河で独立を果たすと、数正は姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、そして小牧・長久手の戦いなど、家康の重要な戦いに関わりました。
なかでも注目したいのが、三河一向一揆の際の行動です。数正は一族の一部が一向宗側につくなか、家康方にとどまりました。このときの経験は、家康との信頼関係を深める一つの契機になったと考えられます。
家康はその後、東三河を酒井忠次(天野ひろゆき)、西三河を石川数正に統率させ、両者を徳川家臣団の中核として位置づけました。
さらに、家康が本拠を浜松に移すと、数正は岡崎を任された嫡男・信康の後見を務めます。信康が自害した後も岡崎城代として留まり、徳川家の重要な拠点を任されています。
信康の後見人という立場を考えれば、その死をめぐって数正の責任が問われても不思議ではありません。しかし、少なくとも数正がその後も岡崎城代として重用されたことからは、家康が彼を信頼し続けていた様子がうかがえます。
このように、数正が家康にとって重要な重臣だったことは間違いありません。そして、その信頼を支えていたのは、戦場での働きだけではなかったのです。


