『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由:2ページ目
徳川家の外交を担った石川数正
家康のもとで、数正は外交面でも重要な役割を果たしました。
家康が今川家から独立した際には、駿府に人質として残されていた正室・築山殿、嫡男・信康を取り戻すための交渉に関わり、織田信長(小栗旬)との同盟をめぐってもその下地つくりを担ったとされます。
そして本能寺の変の後、羽柴秀吉が急速に台頭すると、数正は秀吉との交渉を担当するようになります。
小牧・長久手の戦いにおいても、数正は軍事面だけでなく外交面で存在感を示しました。戦いの最中から、秀吉との和睦を家康に勧めたともいわれ、徳川家が難しい判断を迫られるなかで、重要な役割を担っていたのです。
外交交渉では単に交渉術だけでなく、相手の立場を理解する能力や、現実を冷静に見極める判断力も必要でした。数正がこうした役目を任され続けた背景には、彼の能力と人柄に対する家康の信頼があったのではないでしょうか。
そして筆者は、数正が持っていたこの能力こそ、のちの出奔事件を考えるうえで重要な鍵になると考えています。
『豊臣兄弟!』が描いた数正出奔の背景
『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、豊臣兄弟と石川数正の関係を通して、出奔に至る経緯が描かれています。
ドラマでは、家康と信濃の国衆・真田昌幸との対立が続くなか、秀吉が数正を大坂城へ呼び出し、真田との和睦を迫ります。
この背景にあるのが、秀吉による天下統一への動きです。1585年(天正13年)、秀吉は関白に就任し、朝廷の権威を背景に大名間の争いを収めようとしました。
戦国大名同士が争うことを禁じ、全ては朝廷首班である秀吉の裁定に従わなければならないという惣無事令で、もし命令に従わないのであれば、天皇に反逆する朝敵と見なされ討伐されても仕方がないという大義名分を掲げたのです。
ドラマでは、秀吉の命令に難色を示す数正に対して、秀長(仲野太賀)は自分が家康のいる浜松まで頭を下げに行ってもよいと語ります。
関白となった秀吉と、その弟であり政権を支える秀長が、家康との交渉にそこまでの覚悟を示す。その姿から数正は、徳川家がもはや以前と同じ立場ではいられないことを実感したのかもしれません。
外交交渉を通じて秀吉の勢力拡大を間近で見ていた数正なら、その力関係を誰よりも客観的に理解していた可能性があります。
この意味で、『豊臣兄弟!』が描いた数正の葛藤は、当時の政治状況を踏まえた一つの解釈として見ることができるでしょう。
しかし、数正は本当に、秀吉の勢力に圧倒されたという理由だけで家康のもとを去ったのでしょうか。

