『豊臣兄弟!』なぜ石川数正(迫田孝也)は徳川家康を裏切ったのか? 史実とドラマ描写から見える出奔の理由:4ページ目
数正は自分を高く評価する主君を選んだ
筆者は、数正が秀吉のもとへ走った背景には、秀吉と数正の双方にとって利益のある選択だったという事情があったと考えます。
秀吉にとっては、徳川家の軍事や外交に精通した重臣を引き抜くことは、家康に心理的・軍事的な打撃を与えられます。
一方の数正にとっては、自分の能力を高く評価してくれる新たな主君のもとで、これまで以上の地位や領地を得られる可能性がありました。
そこには、徳川家における家臣の所領について考えてみる必要があります。
1590年(天正18年)、家康が関東へ移封された際、徳川四天王のうち井伊直政(阿久津仁愛)には上野箕輪12万石、本多忠勝(夏生大湖)には上総大多喜10万石、榊原康政(栗原類)には上野館林10万石が与えられました。一方、筆頭格の酒井忠次は下総臼井で3万7千石程度が与えられたとされます。
直政・忠勝・康政がバリバリの武功派だったのに対し、忠次は数正と同じように外交的な交渉担当でもありました。家康はそもそも、譜代の家臣に対してそれほど多くの所領を与えていません。幕府を開いてからも大半が10万石未満です。
そして当時の武士たちは、第一に家のことを考えました。そうなると、数正が徳川家にとどまった場合、どれほどの所領や地位を得られ、それを子どもたちに残せるのか。
外交能力に優れ、徳川家の中枢を担っていたという自負がある数正が、将来にわたってどのように評価されるのか。それは本人にとっては、無視できない問題だったのです。
鎌倉時代以来、武士の主従関係は「御恩と奉公」という言葉で説明されます。主君は家臣の奉公に報い領地を与え、そのために家臣は命がけで主君のために働く。だからこそ、その働きを正当に評価してくれる主君を求めることは、武士にとって至極当然であったのです。
筆者は、石川数正の出奔には、秀吉と数正双方の利害が一致したという側面があったのではないかと考えます。
もちろん数正には、並々ならぬ家康への忠誠心はあったでしょう。しかし、自分の能力や働きに対し、どのような待遇を保証してくれるのか。その現実的な判断が、数正の決断に影響していた可能性は髙かったのではないでしょうか。
そう考えると、数正の出奔は単なる裏切りではなく、戦国武将が自らの将来を選び取った行動としても捉えられるのです。
「豊臣兄弟!」の今後の展開について、こちらの記事でも紹介していますので、ぜひ一緒にご覧ください。



